日本の軍国主義化

第1次世界大戦後の世界

一次大戦後、日本の軍国主義化がはじまる

第1次世界大戦の終息から間もなく日本の第2次世界大戦参戦までの歩みは始まった。
平和実現のため、世界はワシントン体制およびヴェルサイユ体制を構築し、軍縮と平和協調への道を歩み始める。日本もまた、陸海軍の思惑が絡み合いながらも戦勝国として体制下に入った。
第1次世界大戦中から大海軍国の建艦競争が始まるが、その建艦競争にブレーキをかける動きもあった。
日本は各国と海軍軍縮条約を締結するも、建艦は諦めなかった。それがやがて英米との不和を生む。

目次

第一次世界大戦、日本も領土拡張に成功

日本は同盟イギリスに協調して参戦

第1次世界大戦(1914年7月〜1919年11月)が勃発するや、日本は同盟国イギリスからドイツが中国から租借して東洋艦隊の基地にしている青島要塞(山東省)の攻略を打診された。

自身も次々と占領地を広げた日本

当時、ドイツとアメリカを新たな仮想敵国にしていた日本は渡りに船と了承し、ただちにドイツに宣戦布告(8月23日)。
天津駐屯のイギリス軍と共に膠州湾の青島要塞を攻撃した。
このとき、勢いに乗る日本は青島のみならず、ドイツが西太平洋に領有する南洋群島ミクロネシア地区)をも占領していった。

戦勝国となり日本が海軍力増強を果たす

日本が英米と並び3大海軍国に、米国との間に溝

この大戦でドイツは東アジアと西太平洋から駆逐され、戦争で国力が疲弊した英仏も後退。
代わって北方には共産国家ロシア(ソ連)が登場し、西太平洋には大正8年(1919)6月28日に締結された連合国とドイツとの講和条約・ヴェルサイユ条約で南洋群島の領有を認められた日本が英米と並んで3大海軍国として登場し、アメリカとの対決姿勢をさらに深めていった。

大戦中に陸軍と海軍を大拡張

その世界大戦中の大正6年(1917)11月、寺内正毅内閣は大戦景気を背景に陸軍の4個師団増設と兵器の近代化、海軍は新式戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を基幹とする「八八艦隊」建設の軍備大拡張案を発表した。
その費用は両者を合わせると30億円にもなる。

造りすぎた艦隊が国家財政を圧迫

八八艦隊の維持費があまりに膨大、歳出の4割に

ところが翌大正7年(1918)9月、寺内内閣が倒れて原敬内閣に代わるや、折からの戦後不況も加わって、八八艦隊が完成した場合の維持費が問題化した。
当時の日本の年間歳出約15億円に対し、八八艦隊が完成した場合の年間維持費は約6億円と見積もられ、「とても賄えない!」と叫ばれ出したのだ。

それでも海軍増強の歩みは止まらず

原首相も驚いて、再調整を求めた。
しかし時の海軍大臣・加藤友三郎大将は強気で、八八艦隊成立後は主力艦をさらに8艦増やす「八八八艦隊」構想も抱いていたという。

陸相が海軍の無理な増強を後押し

このとき田中義一陸相が閣議で加藤海相に助け船を出した。
「陸海軍の拡張を同時にやっては財政上たまらぬと思う。軍艦には艦齢がある。大局から見て陸軍は手を引くから、海軍の八八艦隊を先にやってよい。その代わり陸軍は八八艦隊が完成したら、今度はどしどし拡張をやる」

田中陸相は陸軍内部の増兵論を抑えたかったのか

田中は以上のような内容の発言をして海軍の顔を立て、同時に陸軍内部の増兵論を抑えたといわれる。
実際は陸軍大臣としてよりも、国務大臣の立場から田中は譲歩したのだが、もちろん理由は他にもあった。

日本の軍国主義化、日米建艦競争が過熱

海軍の仮想敵国アメリカも1916年から海軍拡張

当時、陸軍の仮想敵国ロシアは革命で混乱の最中にあり、対外戦争どころではなかった。
一方、海軍の仮想敵国アメリカは1916年から海軍拡張策を実施していた。

米国に対抗するため八八艦隊整備を優先、軍国主義へ踏み出す

こうして大正8年(1919)に陸海両大臣と高橋是清蔵相の三者協議で、1927年度までは海軍の八八艦隊整備を優先することになり、日本は軍国主義化への大きな第一歩を踏み出したのだった。

日本の軍拡に英米もさらなる軍拡で対抗

日本が八八艦隊の建造を開始するや、アメリカは「戦艦10隻、巡洋戦艦6隻、巡洋艦10隻、その他の艦船100余隻を3年間に新造する」という大拡張案で対抗してきた。
イギリスも5万トン戦艦4隻の建造を決め、ここに3大海軍国の建艦競争が開始されたのである。

戦艦「長門」と「陸奥」が竣工

建艦競争の幕開けともいえる「八八艦隊」案の最初の戦艦「長門」が竣工したのは大正9年(1920)11月で、16インチ(40センチ)主砲を搭載した世界最初の戦艦として注目を浴びた。
姉妹艦の戦艦「陸奥」も竣工を目前にしており、建艦競争の火に油を注ぐ形になった。

戦勝5ヵ国の軍縮会議〜日本も軍縮を迫られる

軍拡による経済悪化で国民の怒りは政府へ

当時の日本は軍部が強行したシベリア出兵の巨額な出費で、国民は苦吟の最中にいた。
そこに建艦競争が大戦後の各国経済をさらに圧迫し、「戦後恐慌」をさらに増長することになり、国民の怒りは一挙に軍部に向けられた。

世界各国が共同で軍縮に向けて動く

事情はアメリカも同じで、各地で騒動が起こったのを受け、列強諸国はウォレン・ハーディング米大統領の提案で米英日仏伊5カ国による海軍軍縮会議を開催することになった。

ワシントン海軍軍縮条約〜米英に有利な軍縮

軍縮会議は大正10年(1921)11月12日から翌年2月6日までワシントンで開かれた。日本は加藤友三郎海相を首席全権として会議に臨んだ。
そして会議では米英日仏伊5ヵ国の戦艦・装甲巡洋艦など主力艦の保有率を米英が5、日本が3、仏伊が1.67とする「ワシントン海軍軍縮条約」を締結した。

日本の主力艦保有は米英の6割

即ち、以後の日本の主力艦保有は米英の6割ということになった。
各国は計画中、或いは建造中の艦はただちに廃棄し、戦艦の新造は条約締結後10年間は凍結することとされた。

戦艦が造れなくなった為「重巡洋艦」が沢山造られる

すると戦艦の新造ができなくなった各国は、戦艦に準ずる重巡洋艦の新造競争を開始した。
この「条約型巡洋艦」建造の結果、軍拡競争は逆に激化し、昭和5年(1930)1月に、列強5ヵ国は補助艦保有量の制限を主な目的としたロンドン海軍軍縮会議を開催することになるのである。

主な出来事・案件

ワシントン会議
太平洋および東アジアの新たな平和秩序を生み出すべく開催され、四ヵ国条約、九ヵ国条約、ワシントン海軍軍縮条約の3つが結ばれた。これによって新たに誕生した国際秩序がワシントン体制である。
日英同盟の破棄
日本を牽制する意図もあった四ヵ国条約。これによって1902年から続いた日英同盟は破棄されることになったが、これは日英ともに想定しない事態だった。
ロンドン軍縮会議
ワシントン海軍軍縮条約締結の後も建艦競争が続いたため、1930年に再度アメリカの提案で軍縮会議を催すことになる。

国際連盟の発足

国際連盟は、第1次世界大戦の反省をもとに、世界平和と国際協力を目的に設立された国際組織である。
第1回総会は1920年1月にロンドンで開催され、その後本部がジュネーブに移された。

国際連盟が抱えた矛盾

世界平和の礎となるはずだった国際連盟だが、最大の問題はアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱したにも関わらず、アメリカが参加しなかったことである。これはモンロー主義(アメリカとヨーロッパ大陸の相互不可侵)によって議会で否決されたことが原因だった。また、ソ連も不参加で2つの大国を欠いた組織となった。

1次大戦後の出来事と講和条約

和暦(西暦) 月日 出来事
大正7年(1918) 11月11日 第1次世界大戦終結
大正8年(1919) 1月18日 1月18日パリ講和会議開催
3月1日 朝鮮半島で独立運動が全土に拡大(3.1独立運動)
4月16日 ハンガリー・ルーマニア戦争勃発
5月4日 北京で学生によるデモが行われる(5.4独立運動)
5月15日 希土戦争勃発
6月28日 ヴェルサイユ講和条約調印(連合国とドイツ国の講和条約)
9月10日 サン=ジェルマン条約調印(連合国とオーストリア第一協和国の講和条約)
11月27日 ヌイイ条約調印(連合国とブルガリア王国の講和条約)
大正9年(1920) 1月10日 国際連盟発足・ロンドンで第1回総会開催
3月15日 株価が暴落→戦後恐慌が始まる
6月4日 トリアノン条約締結(連合国とハンガリー王国の講和条約)
大正10年(1921) 11月4日 原敬首相が東京駅で暗殺され、内閣が総辞職する
11月12日 ワシントン会議開催
11月13日 高橋是清内閣成立
大正11年(1922) 2月6日 ワシントン海軍軍縮条約調印
4月10日 ヨーロッパの経済復興を目的とするジェノヴァ会議が開催
大正12年(1923) 7月24日 ローザンヌ条約締結(連合国とオスマン帝国の講和条約)

主な国際会議と条約

会議 条約と趣旨
パリ講和会議(1919) ヴェルサイユ条約
⇒戦後処理、国際連盟の設立
ワシントン会議(1921〜1922) 四カ国条約
⇒太平洋における各国の権益の尊重
九ヵ国条約
⇒中国の主権・独立の尊重と、門戸開放・機会均等
山東懸案解決に関する条約
⇒日本が獲得した山東のドイツ租借地などの返還と山東省からの軍の撤退
ワシントン海軍軍縮条約
⇒各国の主力艦の保有率の決定、10年にわたる主力艦の建造中止
ジュネーブ軍縮会議(1927) 成立せず
パリ会議(1928) パリ不戦条約
⇒締結国同士の戦争放棄、平和的手段による紛争解決
ロンドン海軍軍縮会議(1930) ロンドン海軍軍縮条約
⇒補助艦の保有制限、主力艦の建造中止期間の延長(〜1938)
第2次ロンドン軍縮会議(1936) 第2次ロンドン海軍軍縮条約
⇒艦種の定義、基準排水量等を規定※日・伊は脱退

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