戦時下の食糧事情

配給制度と代用食、戦時下の食糧事情

米の代わりに芋を主食にした戦時下

戦争が長引くにつれ、戦地も銃後も満足に食べる事も叶わない生活を強いられ「食糧戦」といえる状態になっていった。
配給制度と代用食、戦時下の食糧事情とはどのようなものだったか。
飢えとの闘いを余儀なくされたその背景と実情をまとめる。

約140万人が食べられずに亡くなった

日中戦争から太平洋戦争へと突入した「一五年戦争」下においては、戦局が悪化するにつれ、戦地も銃後も「食糧戦」の様相を呈していった。
前線への補給を軽視して戦線拡大を最優先した結果、全戦没者の約6割、約140万人もの軍人・軍属が餓死あるいは栄養失調による病死に追い込まれたといわれている。

食糧不足は一般人にも及んだ

一方、「銃後」の守り手とされた国民も「総力戦」の名のもとに食うや食わずの生活を強いられた。
こうした戦時下の食生活を象徴する二つの存在が「配給制度」と「代用食」である。

配給制度とは

日用品を支給する仕組み

配給制度とは生活必需品の購入量を世帯ごとに割り当てる消費規制をいい、米・小麦粉・調味料・食用油のほか、魚や野などの生鮮品も対象とされた。

代用食とは

米以外のモノを主食とした

代用食とは米の代わりに芋・麺・パンなどを主食とした食事形態をさす。

いずれも戦争によってもたらされた食糧不足への苦肉の策である。

戦争が食糧不足を生み出した

国は食糧に影響が出ると思わず開戦

そもそも国は食糧の安定供給が可能であると見込んで太平洋戦争の開戦を決断したのだが、農作物の増産目標や海上輸送力の見積もりは希望的観測に過ぎなかった。
しかも、戦争が長期化したことで労働力・資材・肥料・燃料が不足し、農業生産量や漁獲高は低下した。

制海権を米国に奪われ、食糧輸入が困難に

南方戦線での敗退が続いた1943(昭和18)年には制海権の消失や船腹(積載量)の不足から頼みの綱の外米も輸入困難となった。

空襲で食糧事情がますます悪化

さらに本土空襲が激しくなると鉄道などの輸送手段も破壊され、食糧事情は悪化の一途をたどったのである。

米を輸出と植民地に頼っていた

1939年、朝鮮大干ばつ

食糧不足が明らかになった最初の切っ掛けは、1939(昭和14)年の朝鮮大干ばつである。

植民地(台湾・朝鮮)からの米で食糧を賄っていた

日中戦争が始まった1937(昭和12)年当時、米は自給の状態にあるとされていた。
しかし、その需給バランスは台湾・朝鮮の植民地を移入することで成り立っており、全消費量の約2割にも及んでいたのである。

開戦後に米を輸出に頼り出す

このため、政府は仏印(現ベトナム・ラオス・カンボジア)・タイ・ビルマ(現ミャンマー)などから外米を緊急輸入することで急場を凌いだ。
また同時に、七分づき以上の米の販売を禁止するなどの措置をとった。

1941年から米の配給制が始まる

年々、戦時統制が厳しくなっていく

次いで、1941(昭和16)年4月から米の配給制が6大都市(東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜)を皮切りに順次実施され、戦時統制が強力に推し進められた。

必要エネルギー分を摂取できなくなる

1人1日2合3(330グラム、成人男子)という配給量は、当時平均消費量である3合を2割以上も下回っている。 主食偏重型の食生活を送り、エネルギーのたんぱく質の約3割を米から摂取していた日本人にとって、それはまさに死活問題であった。

1942年の食糧管理法制定

1942(昭和17)年の食糧管理法の制定以降は、新たに設けられた営団を中心に主要食の流通が一元的に管理された。
それでも前述の理由で配給事情は好転せず、ヤミ取引も横行した。

米以外の食糧が配給され始める

ジャガイモや小麦などの穀物

翌年からは差引きで馬鈴薯(ジャガイモ)・小麦粉・甘藷(サツマイモ)・雑穀などが配給されるようになり、その割合は上昇し続けた。
東京の場合、1945(昭和20)年6月には代替食糧が実に5割にも達している。
辛うじて保たれていた配給量も、同年7月には一割減の2合1句とされた。

節米運動、戦争の為に贅沢を慎む

禁酒禁煙、一汁一菜、日の丸弁当

主食の不足を補うための代用食は、戦争初期に「節米運動」の形で提唱された。
毎月1日の「興亜奉公日」に求められた禁酒禁煙、一汁一菜、日の丸弁当などと同様、戦場の労苦をしのび贅沢を慎む「国民精神総動員運動」の一環として節米が奨励されたのである。

戦争に協力せよ、という同調圧力

婦人雑誌は競って代用のレシピを掲載し、デパートの食堂にも工夫を凝らしたメニューが並んだ。
だが、白米至上主義ともいうべき食生活はそう簡単には変わらなかった。

大根飯、すいとん、蒸しパン

食糧事情が悪化すると、日々の食事は否応なく大根飯などの混ぜ飯や雑炊が中心になった。
それも難しくなると、すいとん(小麦粉の団子を実にした汁)や蒸しパンなどで空腹をしのいだ。

戦争末期のあまりに悲惨な食糧事情

隠れて買い物に行き、道端で栽培

戦争末期には、量もわずかで遅配続きの配給だけでは命をつなげず、警察の取り締まりをかいくぐり農村へと買い出しに行くのが当たり前になる。
道端や線路脇、校庭、庭先などありとあらゆる場所でサツマイモやカボチャを栽培し、野菜くずやお茶殻も口にした。

野草や昆虫まで食べる「決戦食」

政府は国民に対し「工夫が足りない」「我慢が足りない」として「決戦食」を喧伝、国民に更なる我慢を強いた。
「決戦食」といって、野草や昆虫を食べるなどが奨励された。
野草から野菜の皮まで使った雑炊や料理を作って飢えをしのいだ。
野草としてはアカザ・イノコヅチ・ヒユ・スベリヒユ・シロツメグサ・ヒメジオン・ツユクサなどが奨励されたという。


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