中国統一とソ連の強大化が進むなかで、旅順の日本陸軍(関東軍)は独断で動き始める。
政府の方針を全く無視して、満州の軍事占領を画策した。
満州事変は、1931年9月18日に中華民国奉天郊外の柳条湖で、旅順の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件に端を発し、関東軍による満州全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争である。
中国側の呼称は九一八事変。
関東軍はわずか5か月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。
中国では1919年に中国国民党、1921年に中国共産党が結成され、欧米や日本に対する民族解放運動が広がっていった。
しかし、中国各地に割拠する軍閥が、中国統一の大きな妨げとなっていた。
後に南京に国民政府を樹立させる国民党の蒋介石は、1926年、北方の軍閥の打倒を目指して北伐を開始した。
これに対して田中義一内閣は、日本人の生命財産の保護を名目に山東出兵を実施。
蒋介石率いる国民革命軍との武力衝突を引き起こした。
これを済南事件という。
1928年6月、満州、蒙古の領有を画策する日本の関東軍の一部が北京から満州へ戻る満州軍閥の張作霖を爆殺。
すると、満州でも反日民族運動が高まり、また軍閥は国民党に帰順して、中国全土は統一された。
張作霖爆殺事件
1928年(昭和3)6月4日、張作霖が乗った列車が、関東軍の謀略により奉天駅近くで爆破された
国民革命派の北伐が始まり、張は北京から奉天に撤退しようとしたが、関東軍は満州占領を狙って張を爆殺した
写真は爆発現場を警備する日本兵
これに危機感を感じた関東軍は、石原莞爾、板垣征四郎を中心に、1931年9月、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破。
これを中国軍の仕業として、満州を支配下に置くべく軍事行動を開始した。
この出来事を満州事変という。
関東軍は若槻礼次郎内閣の不拡大方針を無視し、占領地を広げていった。
柳条湖事件の3日後、中国は国際連盟に日本を提訴する。
米国も日本も軍事行動を非難した為、関東軍の思惑は頓挫するかに見えた。
しかし、翌1932年3月、満州全土を占領した関東軍は、満州の親日政治家からの協力を得て、清朝最後の皇帝溥儀を「執政」に迎え、満州国の建国を宣言させた。
国際連盟の調査団が到着する前に、満州の「独立」を既成事実化しようとしたのである。
9月には、「日満議定書」を交わし、日本政府は満州の独立を承認したが、満州国政府は事実上、日本の傀儡政権であった。
1932年4月、英国のリットンを団長とする国際連盟調査団が、満州各地での調査を開始した。
翌33年2月にはリットン報告案が国際連盟総会で採択される。
それは、満州での日本の権益は認めるが、日本に撤兵を求める内容であった。
リットン調査団は、満州事変を日本の正当な自衛措置とは認められないとする報告を提出したのであった。
1933年2月、国際連盟臨時総会では、42対1で日本の満州撤兵勧告案を可決、日本はこれを不服として退場した。
同年3月、日本は国際連盟脱退を通告(1935年発効)、1934年に溥儀を満州国皇帝に祀り上げる。
1936年にはロンドン海軍軍縮条約、ワシントン海軍軍縮条約も失効し、国際的孤立への道を歩んでいった。