昭和の暮らし

昭和の家庭生活

第二次世界大戦で荒廃した日本だったが、急速な速さで復興を果たした。
経済大国の仲間入りを果たした日本の過程には、新しいモノが次々と入り込んできた。
豊かな時代を通じて、日本人の生活の質はどう変わっていったのか見てみる。

戦後、日本の経済復興

高度経済成長時代

昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争により、日本へ米軍からの戦争特需がもたらされ、経済復興の大きな景気となった。
昭和30年代から40年代に掛けて数度にわたる好景気を謳歌した。
この時代を「高度経済成長時代」という。

各家庭に「三種の神器」と「3C」が普及

この間の日本の家庭では「三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」や「3C(カラーテレビ、クーラー、自動車)」などの耐久消費財が一斉に普及する。
昭和36年には電気洗濯機の家庭普及率が50%を突破し、続く40年には電気冷蔵庫が50%を突破、47年にはカラーテレビが、53年には自動車、62年に電子レンジ、63年にビデオデッキの普及率が50%を突破した。
敗戦直後は食糧すら不足していた日本では、戦後間も無く急速な復興を果たし、多くの日本人が豊かさを実感する事となった。
しかし、バブル崩壊後には不況が長引き、日本人の収入も支出も減少傾向となっていく。

家電・三種の神器

家電・三種の神器

3C(新・三種の神器)

3C(新・三種の神器)

父親の平均家計簿

電車代、たばこ代、お昼代、そして仕事帰りの「ちょいと一杯」。
昭和の父親たちの楽しみは、どの位のお金が掛かっていたのか。

昭和35年(1960)当時の物価

昭和35年(1960)当時の物価をみてみる。
当時、大卒国家公務員(1種)の初任給は、月額1万800円で、平成16年には17万9800円となった。
約16.6倍も伸びている。
消費者物価指数(消費者が購入する商品の小売価格の変動を表す指数)は、この間で約5倍しか上がっていないので、賃金は物価に比べて、格段に上昇した。

仮に民間企業勤務の係長(35歳)のAさんがいたとしよう。
Aさんの月収は約4万2000円だった。
朝食は食パンで当時29円、パンに付けるマーガリンは1箱79円ほど、朝読む新聞は390円(一ヶ月)だった。
現在の物価と比較すると分かり辛いが、マーガリンは高価だったようだ。
髪を切る時は約155円、煙草は1箱(電車賃20本入)で70円、お昼の盛り蕎麦は一杯180円、仕事帰りの生ビール一杯(500ml)は125円、銭湯料金は東京で27円程であった。
東京区間の国鉄初乗り運賃は10円、都バスの初乗り乗車賃15円程。
銭湯が非常に安かったのが分かる。

家電製品の普及

電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気炊飯器が一般家庭に普及したのが昭和30年代。
家事労働の近代化は生活の何を変えたのか。

家電の普及と主婦の生活時間

昭和30年代、高度経済成長を庶民が最も実感する機会は「家電製品の購入」であった。
人口5万人以上の都市に限って言えば、昭和30年(1955)には約10%だった電機洗濯機の普及率は、10年後には80%弱に急上昇している。
電気冷蔵庫に至っては、たった1%だったものが、10年で約70%まで伸びている。
その背景には、電気・ガスの供給システムの整備や、月賦払いの一般化、生活水準の向上などがあげられる。

炊飯器の登場

家電によって、人々の生活はどう変わったのか。
例えば、自動的にご飯が炊ける炊飯器の登場で、主婦が朝起きる時間は格段に遅くなった。
このため、発売当初は「炊飯器は主婦を怠け者にする」といった偏見の様な批判もあった。

初期の炊飯器

初期の炊飯器

家事労働が減り、より生活が豊かに

家事時間が減った分、睡眠時間が増えたのかというとそうではない。
テレビ視聴や身の回りの用事に充てる時間、交際時間などが増えている。
家事労働が軽減された事で、主婦が自分の時間を持てるようになり、暮らしをより楽しむ事が出来るようになったのだ。

家事労働の自動化

日本における家庭用電気器具、いわゆる「家電」の普及は、大正時代初期から始まった。
既に都市部を中心に普及していた電灯が、タングステン電球の発明により省電力化し、電力にゆとりが生まれた為だ。
この時期に登場した家電には、コンロやストーブなど、電熱を利用したモノと、扇風機など、モーターを利用したモノがある。
電気が光源だけではなく、熱源、或いは動力として機能する事が紹介されたわけだ。

家電の生産は、戦争を挟んで一時期、停滞するが、戦後の経済復興とともに回復し、昭和30年代には、爆発的なブームを迎える。
ブームの最中に開発された家電には、熱源を火力から電力に置き換えただけの製品や、動力を回転運動に転換させただけのものも多いが、サーモスタットやタイマーなど、制御装置との組み合わせにより、家事労働を自動化させた製品も登場した。

昭和30年代の住宅事情

戦後混乱期を終え、住宅不足の解消が求められた時代。
庶民が手に入れたのはどんな住まいだったのだろうか。

住宅ローンの誕生

敗戦直後から続く、住宅難を解消する施策の2本柱の一つとして登場したのが、住宅金融公庫融資。
故人の住宅の建設に際し、長期で低金利の資金を提供する、いわゆる「住宅ローン」で、その公庫融資をいち早く適用して建てたのが、現在「昭和のくらし博物館」となっている小泉家住宅である。

返済の為、下宿人を置いていた

昭和26年(1951)の着工時、建築資材が不足していた為、床の間がない、ベニヤ版をそのまま天井に使うなど、合理的で簡素化された造りになっている。 2階の4畳半の2間は、下宿人の住まい。
アパートも少ないこの時代、公庫への返済のため、下宿人を置くのはよくある事だった。

水道ガス・風呂はなく、トイレは汲み取り

当初は水道やガスも敷かれておらず、井戸水を汲み上げ、土間の竈で煮炊きを行っていた。
洗面所もない為、朝は台所の流しで家族順番に顔を洗っていたという。
勿論、風呂のない家がほとんどなので、みんな銭湯に通っていた。
便所は汲み取り式で、庭の野菜の肥料にしていた。

出入り口が沢山あった

また、出入り口が多いのも、当時の家屋の特徴だ。
畏まった訪問は「玄関」、家族が家事の為に出入りするのが「勝手口」、ご近所さんや御用聞きの人と話をする「縁側」と、状況に合わせて自然と使い分けられた。

当時、先進的だった団地

戦後の住宅不足解消のもう一つの施策は、日本住宅公団による集合住宅の供給だった。
鉄筋コンクリート構造の集合住宅は「団地」と呼ばれ、応募倍率は10倍を超えており、庶民の憧れだった。
人気の理由として、水洗トイレ、ガス風呂に代表される先進設備が備え付けられていた事があげられる。

白鷺団地(提供:独立行政法人都市再生機構)

白鷺団地(提供:独立行政法人都市再生機構)


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