後に三国同盟を組む日独伊の枢軸国陣営で、最初にファシズム政権が誕生したイタリアでは1925年頭の日の議会演説で独裁体制を宣言。ドイツでは1933年にアドルフ・ヒトラーが首相に指名され、短期間で独裁体制に。日本では独裁政権は誕生しなかったが、軍国主義化が進み民主主義政府ではなくなってしまう。
後に三国同盟を組む日独伊の枢軸国陣営で、最初にファシズム政権が誕生したのはイタリアである。
1919年、ムッソリーニは復員軍人を主体にイタリア戦闘ファッシ(FIC)を結成した。
1921年の総選挙で35名の当選者を出した戦闘ファッシは、国家ファシスト党に改組。
以後、軍部や大資本家と手を結び、次々と地方都市の行政権を奪い、1922年10月、ムッソリーニがナポリで政権奪取を宣言した。
武装私服の黒服隊が集結し、ローマ進軍を開始。
ファクタ内閣は進軍を阻止するために戒厳令を要請したが、国王がこれを拒否したため、無血でローマ進軍を果たし、ファシスト政府が成立した。
ドイツでナチスの前進であるドイツ労働者党が結成されたのは、戦闘ファッシと同じ1919年である。
翌年、ナチスと改称し、1921年からヒトラーが指導者となった。
ナチスは暴力的な突撃隊の街頭闘争によって勢力を増していった。
1923年のミュンヘン一揆の失敗で党が非合法化、ヒトラーも投獄されたが、1925年にヒトラーの出獄とともに大衆政党として再出発した。
ナチスは大恐慌で没落した中産階級や農民の支持を獲得し、1932年の総選挙で第一党に躍進。
翌年に政権を掌握し、国会で全権委任法を可決させ、独裁体制が確立した。
日本にはドイツやイタリアのような独裁政権は誕生していない。
昭和初期、対中国政策で強硬策を取るなかで、中国を背後から支援する米英とも敵対関係となり、引き返す決定的なポイントをいくつか素通りして、流されるように太平洋戦争に突入してしまったのが実情だった。
その中国大陸の情勢を見ると、1926年、広東を根拠地とする国民革命軍が北方軍閥の打倒を目指して北伐を開始。共産党も先遣隊を組織して積極的に参加した。
武漢を陥れた総司令の蒋介石は1927年、国民政府を武漢に移したが、その後反共クーデターを起こし、南京政府を樹立。
革命軍の分裂により、北伐は一時中断された。
1928年に再開すると、奉天軍閥の張作霖を北京から追い出し、北伐が完成した。
その間、北伐が華北に及ぶことを恐れた日本は3度にわたり、山東出兵を行っている。
田中内閣は居留民保護を名目に、1927年5月から8月にかけて、青島に兵を派遣。
2度目は翌年の北伐再開とともに国民革命軍が山東省に入ると、済南に支那駐屯軍6000人を派兵した。
5月3日の市街での小さな戦闘を機に交戦状態に入り、事件の拡大を見た田中内閣は一個師団を増派し、8日総攻撃を開始した。
済南城に入城した日本軍の集中砲火により、城内では一般市民を中心に約5000人の死傷者を出した。
国民革命軍の主力は済南を迂回して北上し、戦闘は11日に終結したが、民衆の反日感情は高まり、日中関係は悪化した。
一方、北伐軍に追われた張作霖は1928年6月、北京と奉天を結ぶ京奉線が南満洲鉄道と交わる地点で、列車ごと爆殺された。
田中内閣は中国から分離した傀儡政権を満洲につくることを目論み、そのトップに据えるために張作霖を呼び戻したのだが、その帰途での事件だった。
爆殺を企てたのは関東軍高級参謀の河本大作大佐らだ。
河本らは張作霖を見限り、爆殺して国民党の仕業に偽装することで出兵しようとした。
だが、関東軍内の打ち合わせが不十分であり、さらに張作霖の側近たちがその死をしばらく公表しなかったため、関東軍の武力行使には至らなかった。
陸軍は内部の調査で事件の真相を知ったが表沙汰にせず、日本国内では満洲某重大事件と呼ばれた。
また、事件の処理を天皇に叱責された田中義一は内閣総辞職した。
軍が起こした行動によって内閣がなす術もなく退陣に追い込まれ、やがて軍が政権内で力を持つようになっていく。
関東軍が年張作霖爆殺を起こしたことで、日本は外交上、国際社会からの印象を悪くしてしまう。
関東軍の思惑は、国力向上のために資源・市場を確保したい、工業基盤・生産拠点を築いて総力戦に備えたいといったモノであったが、本来こういった事は政府主導で考えることであり、軍部が勝手に行うようなものではなかった。
日本政府は外務大臣幣原喜重郎が国際協調・融和を重視するも、ロンドン海軍軍縮条約締結によって「軟弱外交」と批判され、犬養内閣成立と共に幣原は内閣を去り、平和外交に暗雲が垂れ込める。