討死した信玄の重臣

討死した信玄の重臣、板垣 甘利 信繁

板垣信方、甘利虎泰、信玄の弟・武田信繁、彼らは死を賭してまで信玄に尽くした。
板垣信方は信玄の傅役で、趣味に入れ込む信玄を諫めたという。甘利は武田家中きっての戦さ巧者であった。板垣と甘利の二人はともに村上義清との上田原合戦で討死している。
弟・武田信繁は上杉との戦い(第四次川中島合戦)で討死し、その死は後の武田家に大きな陰を遺す事となる。

後の信玄の重臣らが父・信虎を追放

父・信虎は甲斐国をまとめ上げ統一を果たすが…

武田家臣団は、ただ強いだけではなかった。最初は国衆連合であったが、信玄の父・信虎が甲斐国を統一する頃には、ある程度のまとまりを持ち、守護家である武田家を支える軍団に成長していた。
しかし、天文10年(1541)に信虎は、駿河に追放という形で甲斐国を逐われる。

板垣・甘利・飯富、のちの信玄の重臣らが首謀者か

これは信玄が中心になってのクーデターではなく、重臣であった板垣信方(信玄の傅役)・甘利虎泰・飯富虎昌らの企てであった。
このとき21歳の信玄は、こうしたキングメーカーたち(裏方で大きな影響力を持つ人物のこと)の計略の上に乗っただけのことであった。
もちろ相談はされたろうが、信虎追放の首謀者ではなかったと思われる。

信玄が甲斐国主、武田家当主に

鎌倉殿式の合議制、信玄は【承認する】というお飾りポジ

ここから信玄は甲斐国主としての道を歩む。
だが、信虎の独裁から開放された武田家臣団は、再び有力国衆による合議制になった。当初は信玄は飾り物であった可能性が高い。
信虎に追放されていた原虎胤・内藤昌豊などを家臣団に復帰させたが、板垣・甘利・飯富らの合議制と信玄の承認によっての復帰であった。

文化性・教養に富んだ信玄

じつは武芸より文化が好きだった信玄

信玄にあって、信虎になかったものは「文化性・教養」であった。信玄は幼時から武技よりも読書・和歌などを好んだという。
しかし、青年期に至るまでのこうした「文化・教養」が国主になって役立った。
信虎のような、強いだけで人の心を思い遣る余裕のない性格とは異なったからである。

信玄のお守り役の板垣

趣味に入れ込む信玄を諫言した板垣

それでも傅役(もりやく:お守り役)として板垣は、信玄があまりに読書や和歌に入れ込んだ際には、国主後継者としてきちんと振る舞うように諫言し、それを信玄も受け入れて反省したという逸話も残る。

信玄の躍進後も補佐し続けた板垣

板垣にとって信玄は、大事な玉宝のような存在であった。
徐々に信玄が新しい国主として力を付けてくると、補佐役として板垣は陰に陽に信玄を見守っていく。 初期の信玄政権では、板垣・甘利の二人が家臣団最高の地位である「両職(家老)」にあって信玄を補佐した。

甘利虎泰、武田家中きっての戦さ巧者

甘利氏も甲斐源氏の後裔

板垣が、先祖に甲斐源氏(初代・信義の二男・板垣兼信)を持ったように、甘利も甲斐源氏(信義の長男・一条忠頼の後裔とされる。
武田家中きっての戦さ巧者といわれ数々の合戦で常に先鋒を務め、この後の信玄の信濃経略に大きく貢献した。
甘利は、信玄の治山治水事業や神社仏閣の再建にも携わっており、信玄への期待が大きかったことを示している。

甘利も板垣も村上義清との戦いで討死

甘利と板垣の二人は、ともに天文17年(1548)、信濃・葛尾城の村上義清との上田原合戦で討ち死にしている。

甲斐源氏の誇りが彼らの結託を強くしていた

二人に共通するのは、武田家の将来を信玄に託すという思いであり、甲斐源氏の誇りを共有することであった。
これが信玄までも手傷を負うという激戦で二人が老骨に鞭打って奮闘し、信玄を守って討ち死にした理由でもあった。板垣58歳、甘利51歳であったという。

弟・信繁の討死、武田家の行く末に暗い影

名補佐役であった弟・武田信繁

当主の弟ゆえ、武田家内で強い存在感

戦国武将にとって「名補佐役」と呼ばれる肉親の存在はさほど多くはない。
信玄の場合は、弟・信繁がいた。信繁には有形無形の存在感があり、信玄が家臣団・軍団を制御するのを信繁が支えた部分は大きかった。

信玄と信繁は同母弟の4つ違い

信繁は大永5年(1525)、信玄の弟(四歳年少)として同母である大井夫人から生まれた。
信玄をよく補佐し、後には分国法『甲州法度之次第』を補佐する『異見九十九箇条』を家訓として作り上げている。
文字通りの武田軍副将であった。

父は兄より弟・信繁を評価していた

しかし、弟は兄を敬い出しゃばらず

父・信虎は早くから信繁の才能と実力を認め、嫡男・信玄を排除して信繁を武田家の後継者と考えていたという。
しかし、信繁は思慮深く、兄・信玄に対しても儒教の最高倫理である「仁義礼智信」(五常の徳)で臨んだ。
信玄は信繁を深く信頼し、信繁は信玄を心から敬っていた。

父を追放した際にも、信繁は兄に従った

信虎追放の際にも、信繁は兄・信玄に反対することなく従ったという。そういう兄弟であった。
これが、クーデターを混乱もなく手際よく運ばせ、信玄政権の樹立に繋がったのであった。
もし信繁が父・信虎の側に立っていたら、その後の戦国最強「武田家」はなかったとされる。
信繁は、戦国時代には考えられないほどの厳格な倫理観の持ち主であり、武将としてよりも武田家の二男・補佐役としての役割を意識し、筋を貫き通したのである。

典厩、古典厩とも呼ばれた

その官途名・左馬助の唐名(中国名)である「典厩(てんきゅう)」で呼ばれる。その子・信豊も左馬助を継いだことから、父の信繁を「古典厩」と呼ぶこともある。

骨格から教養まで似ていた武田兄弟

岐秀元伯・策彦周良などの僧から学問を学んだ

後の重臣の一人・山縣昌景が「すべてに相整いたる真の副将」と称賛したほどの人物であった。
その容貌といい骨格といい信玄によく似ていたという。外見だけではなく、性格も才能も信玄に劣らないものがあった。
信玄が、岐秀元伯・策彦周良などの僧から学問を学んだように、信繁も同様に学んでいる。それでいて、そうした才能をひけらかすことはなかった。
もちろん、父・信虎が認めたように兵法・武技にも秀でていた。一方で、騎馬軍団といわれる武田軍の精鋭を指揮たのも信繁であった。

上杉謙信との戦いで信繁が討死

信繁の死後、武田家臣団に綻びが見え始める

だが、信繁は永禄4年(1561)9月の第四回川中島合戦で華々しい討ち死にを遂げている。
信繁が討ち死にした後から、鉄壁を誇った武田家臣団にも徐々に綻び(義信事件などはその象徴か)が出るようになる。
信繁の存在こそが、信玄を補完していたことの表れとされる。


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