勝頼と家臣団が三分し対立

武田家の終焉、全盛期5万が最期は43人に

名門甲斐武田家の終焉、全盛期5万ともいわれた家臣団が最期は43人にまでなってしまう。
なぜ勝頼の代になって武田家はそこまで凋落してしまったのか、簡単にまとめる。

目次

勝頼不信は高天神城の落城から始まる

家臣を守ってくれない大将、と思われてしまう

勝頼の武田家臣団崩壊は、いつ始まったのか。それは、織田・徳川連合軍の武田領侵攻の前年、天正9年3月(1581年)に起きた高天神城落城が引き金になっていた。
一度は奪った高天神城が家康に包囲されたが、勝頼は救援できないまま城を失った。ここが信玄との違いであった。
これによって「勝頼は自分たちを守ってくれない大将である」という不満が家臣団に蔓延した。
勝頼に対する不信が始まった武田家臣団の瓦解は、こうして伝播していったのである。

武田家臣団、最後の軍議

軍議は韮崎・新府城で開かれた

つづく高遠落城を受けて、勝頼が築いて慌ただしく引っ越した韮崎・新府城で軍議が開かれた。

嫡男・信勝は討死覚悟の籠城を主張

16歳になっていた勝頼の嫡男・信勝は、これまでの勝頼や重臣の方針を批判した。
そして「新府城での籠城」を進言。信勝は、討ち死に覚悟での籠城を言い放ち、自刃をも主張した。

真田昌幸が上杉景勝を頼ることを進言

これに対して、真田昌幸が上杉景勝との甲越同盟を言い立てて、自分の居城である上野・岩櫃城への避難を勧めた。
「岩櫃城は峻険山に囲まれた要害であり、同盟者・上杉氏の越後にも近いし、上州箕輪城も信濃小諸城も武田領。3年や5年は保つだろう」と言うのであった。

小山田信茂が自分の城への退却を勧め、勝頼が受け入れる

しかし、小山田信茂が自分の城である大月・岩殿城への退却を勧めた。
郡内地域(山梨県の富士北麓地方)で他日を期したらどうか、と言うのである。
小田原にも近く、勝頼の妻・北条夫人の存在からも、兄の北条氏政に頼ることも可能というのである。
勝頼は、岩殿城への退却を決断した。

父・信玄の教えに背いた「勝頼政治」の失敗

過酷な課役を課し、領民からも見放されていた

織田軍が侵攻した時点で、勝頼は領民からも見放されていたという史料もある。
勝頼は、度重なる外征に加えて新府築城でも領民に対して過酷な課役を課した。これが領民の不満になっていた。
『信長公記』には、天正10年(1582年)に織田軍の先鋒が信州に侵攻すると、その先々から農民が自分の家に火を掛けて味方に加わってきた、と記されている。

領民は織田家による統治を望んでいたという(真偽は不明)

「勝頼が新たな課役を申し付けたり、新たな関所を作って関銭を取り立てたりするので民百姓の苦しみは耐え難く、貴賤上下を問わず武田を忌み嫌って、一日も早く織田家の御領国になりたいと望んでいる」というのである。
真偽のほどは定かではないが、この時点での勝頼は「人は石垣、人は城」という信玄の領国支配感からはかなりズレていたのであろう。

信玄の「登用してはいけない人」の教え

勝頼自身がこの教えに当てはまってしまう

また、信玄は生前、人材登用の反対の七条件(間違った人材登用)を上げている。
「油断のある人を、落ち着いた人と見誤る」「軽率な人を、素早い人と見間違う」「愚図な人を沈着な人と見誤る」「そそっかしくて早合点の人を、敏捷な人と見損なう」「道理に暗く埒の明かない人は明確にものが言えないが、それを慎重な人と思い込む」「思慮がなく口叩き(おしゃべり)な人を、よく捌けた人と思い込む」「信念のない人に限って、よく知らないことに拘り強情を張るものだが、こういう人を立派な武士で信念を持った剛強武勇の人だと勘違いする」などである。
ある意味で勝頼はこの七条件に当て嵌まる間違いを犯してしまった。
側近を重用する政治・親族衆への配慮などが、信玄とは異なる勝頼政治であった。

小山田信茂の裏切り

小山田氏は「甲斐源氏」ではなく「坂東平氏」だった

穴山信君と並んで小山田信茂の裏切りは、現代まで謗られているが、信君同様に信茂にも理由があった。
それは小山田氏は「甲斐源氏」ではなく、坂東平氏の出身であって信虎との閨閥関係(けいばつかんけい:親族関係)はあったが、勝頼滅亡に当たって、小山田氏の郡内領を守る、という意識からの裏切りであったのだ。

裏切られた勝頼と家族の惨状

勝頼・信勝父子と北条夫人らが笹子峠に辿り着いた時、信茂の将兵が柵を作って待ち構え、鉄砲まで撃ちかけてきた。
勝頼は、これ以上通過できないことを知らされた。裏切りである。
勝頼一行は仕方なく田野まで戻った。
新府城を出る際には八百人だった将兵もいつの間にか、百人足らずに減っていた。

武田家の終焉、最期は家臣団43人に

勝頼・武田家の最期をめぐる説話

この天目山・田野にもいくつかの逸話が残されている。
天正10年3月11日(1582年)の早朝、終焉を目前にした勝頼を、側近の讒言によって蟄居を命じられていた使い番十二人衆の一人・小宮山内膳友晴が「武田家臣団の一人として共に戦いたい」と討ち死にを覚悟の参戦を願い出た。
感動した勝頼は即座に蟄居を解いて家臣団に加えた。
また最後まで勝頼を守り続けた土屋惣蔵昌恒は、狭い断崖に立って藤蔓を左手に巻き殺到する織田軍兵士を右手で斬りまくった。
「土屋惣蔵の片手千人斬り」といわれる奮戦である。
斬られた織田軍将兵の血が3日間、日川を赤く染め「三日血川」と呼ばれたという。

勝頼、家族とともに自刃

しかし、勝頼と最後の武田家臣団は、43人(41人ともいう)になった。
そして、勝頼・信勝は惣蔵・友晴らともに刀槍を振るって戦い抜き、力尽きて自刃して果てた。
北条夫人らも自刃した。
勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳の最期であった。


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