戦国武将と孫子の兵法

「孫子の兵法」を武将たちが学んだ

目次

中国で生まれた兵法を僧侶が武将に教えた

日本の武将たちは中国で生まれた「孫子の兵法」から戦い方を学んだ。
七つの兵法書をまとめた「武経七書」が教科書となり、徳川家康や武田信玄、上杉謙信や今川義元なども大陸の兵法に学び戦っていたのだ。
その武将たちに学問を教えたのは僧侶たちで、戦国大名と僧侶は密接な関係であった。

「孫子の兵法」とは

「兵は国の大事、死生の地、存亡の道」を主旨とした「孫子」。国策の決定、将軍の選任、行軍、輸送、その他作戦、戦闘の全般にわたって説き、「戦わずに勝つこと」を論じた書物。

戦国大名は「兵法」を学んでいた

兵法を学び、軍法書としてまとめ共有した

戦国大名は、決して無闇やたらと戦ったわけではない。多くの武将は兵法を学ぶことにより、厳しい戦局を乗り越えるための知識を得ていた。
長宗我部氏の武家家法『長宗我部氏掟書』には、軍法(この場合は兵法の意)に通じることの有用性を説いている。兵法は戦争の一環をなすので、戦争の準備段階で必要とされる知識であった。

武将が学んだ中国の古典

教養として、右の四書五経や兵法書が読まれたが、すらすらと読めるものではなく、知識人である公家や僧侶から読み方の講義を受けた。難解な書物だったのである。

四書
論語、大学、中庸、孟子
五経
易経、書経、詩経、礼記、春秋
兵法書
六韜、孫子、呉子、三略、他

武経七書、七つの兵法書がまとめられた

中国・宋の時代の兵法

日本の武将が兵法の手本にしたのは、中国である。
中国の宋(960〜1279)の時代には、『孫子(そんし)』『呉子(ごし)』『司馬法(しばほう)』『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』『尉繚子(うつりょうし)』『李衛公問対(りえいこうもんたい)』という七つの兵法書があった。
やがて、それらが「武経七書(ぶけいしちしょ)」としてまとめられ、武官を選抜する武科挙(官吏登用のための資格試験)の標準的な教科書になった。
それは兵法の古典として重んじられた。

奈良時代、日本に兵法が伝来

鎌倉時代以降、兵法が日本で普及・発達

日本に兵法が伝わったのは、奈良時代にさかのぼる。
先述した『孫子』『呉子』『六韜』『三略』などは、その代表である。
とりわけ鎌倉時代以降、戦いが恒常化すると、戦い方が洗練され、同時に兵法も大いに発達した。

日本に孫呉韜略の兵法あり

南北朝時代になると、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が中国の明に「日本に孫呉韜略の兵法あり」と書いた国書を送っている。
この頃には、すでに日本でも『孫子』『呉子』『六韜』『三略』がよく読まれた証左といえよう。

日本で執筆された兵法書も

『兵法秘術一巻書』『訓閲集』

南北朝期から室町期にかけて執筆された『兵法秘術一巻書』『訓閲集』などは、よく知られた兵法書である。
この頃には長年にわたる戦いでの経験則を踏まえつつ、戦闘の理論化が進められたのである。

がんばって勉強していた戦国大名たち

一部の知識人にしか中国古典は読めず

とはいえ、中国の古典である『孫子』『呉子』『六韜』『三略』は難解で、戦国大名が普通に読んだり、理解したりするのは決して容易ではなかった。
当時、そうした書物を理解しながら読解したのは、学問を職務とする一部の公家、あるいは僧侶に限られていた。
越前の朝倉氏は、京都から清原宣賢を招いて、教えを請うたことで知られている。

僧侶は戦国大名らの先生

僧侶が“教える”のは仏教の話だけではない

その点で、戦国大名と僧侶の関係は重要だった。
なかでも禅宗の一派である臨済宗は、室町幕府の庇護を受け、その教えが地方に伝播すると大名たちから熱烈な支持を受けた。
僧侶の役割は多岐にわたるが、その重要な一つが教育者としての役割である。

僧侶は「帝王学」から「兵法」まで詳しい

僧侶は仏教だけでなく、儒学などにも通じた知識人であった。
儒学は個々人の道徳的修養と徳治主義的政治を重視し、まさしく帝王学と呼ぶにふさわしい学問だった。
大名にとって、必須の教養であり、当然、兵法も含まれていた。

中国兵法を学んだ有名な大名たち

上杉謙信と今川義元はもとは僧侶として生きていた

戦国大名のなかには、幼少期に寺に入ったり、あるいは家庭教師として僧侶を付けられた例が珍しくない。
上杉謙信は天室光育に学び、今川義元は太原雪斎から教えを受けた。
謙信と義元は僧侶として生涯を終えるはずだったが、のちに当主の座に就いた。
二人が学んだ知識は、当主になった後も大いに役立っていた。

甲斐武田家も中国から兵法を学んだ

武田信玄の家庭教師役は、岐秀元伯が務めた。
武田信玄の弟・信繁が残した九十九ヵ条にわたる家訓には、『孫子』『呉子』『六韜』『三略』などからの引用があるので、「孫呉韜略」を教訓としていたことが判明する。
武田家中においても、中国の兵法書は読まれていたのである。

が、中国兵法を鵜呑みにしてたわけではない

兵法書は参考書であり、臨機応変が求められた

のちに著名となった戦国大名は、若い頃に中国の古典や兵法書に親しみ、来るべき日に備えていた。
とはいえ、彼らは闇雲に中国の兵法書を信じたわけではなかった。
『甲陽軍鑑』では、「唐より日本へ渡りたる軍書を見聞たる斗にては、人数を賦、備をたて、陣取をとりしき、堺目の城構等の、よき軍法を定むる事、成がたくおぼえたり」という信玄の言葉を載せている。
中国の兵法をそのまま取り入れても、合戦で軍法を定めることは困難であると述べている。
兵法書は、あくまで参考にすぎないのである。

徳川家康も中国兵法を学んでいた

難解な古典を読破し実戦に役立てた家康

徳川家康も『六韜』『三略』などの兵法書を読破していた。
それだけでなく、家康は鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』を座右において、帝王学を学んでいた。
つまり、兵法書をそのまま実戦の場で用いるというよりも、絶えず修養を心掛け、戦場での応用力を磨くことが目的だったのである。

江戸時代、戦国時代の戦いが学ばれるように

本当に在ったか判らない陣形を学んでいた

江戸時代になると、戦国時代の戦略・戦法を学問的に検討する機運が高まった。
「鶴翼の陣」や「車懸かりの陣」などは代表例であるが、実際に戦いで用いられたのかは疑問である。

江戸時代にも独自の兵法が存在した

江戸時代には戦国時代の軍配兵法から脱皮し、洗練された流派兵学としての体系化・組織化が図られた。
それらは甲州流、越後流、北条流、山鹿流、長沼流の五大兵法学が代表的なものである。
ただし、それらはあくまで理論化されたものにすぎず、実戦に役立ったのか否か不明である。

「孫子の兵法」全13篇

「孫子の兵法」全13篇を分かりやすく簡単にまとめる。

  1. 始計篇 敵が強い時は無謀な戦いを避ける
  2. 作戦篇 短期決戦を目指して戦う
  3. 謀攻篇 戦わずして勝つことが最善
  4. 軍形篇 まず守りを固めてから戦うべし
  5. 兵勢篇 戦いを始める際の勢いを生かす
  6. 虚実篇 敵を操り、自軍が主導権を握る
  7. 軍争篇 敵よりも早く戦いの場に着くこと
  8. 九変篇 戦局の変化には臨機応変に対応する
  9. 行軍篇 効率よく移動して敵情を見通す
  10. 地形篇 地形に合った戦術で戦う
  11. 九地篇 地勢に合わせて用兵を考える
  12. 火攻篇 火や水を使い戦後処理も考えて戦う
  13. 用間篇 間諜(スパイ)を使い敵情を探る

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