応仁の乱で荒廃した京都を復興し都市機能まで支えたのは商人たちだった。
上流階級や戦国大名を顧客に大店(政商)に成長した者、町人向けの連雀(行商人)もいた。
戦国期は戦ばかりしていたわけではなく、商業活動が活況を呈した時代でもあった。
戦には米が必要で、物資を運搬する業者も重宝された。
一方で庶民の生活を支える日用品の物販や、戦災で荒れた地の復興のために建物を造る職人の需要も高かった。
「洛中洛外図屏風」は、京都の市街にあたる洛中と郊外にあたる洛外を描いた六曲一双の屏風絵である。
画題として好まれたこともあり、複数の洛中洛外図屏風が残されているが、なかでも織田信長から上杉謙信に贈られた洛中洛外図屏風は、上杉本として国宝に指定されている。
そこには、公家や武士の邸宅や寺社だけではなく、商人や職人の生き生きとした姿も描かれていた。
応仁・文明の乱で京都は荒廃してしまう。しかし、戦後には、管領細川氏のもとで復興されていった。
その中心的な役割を担ったのが、富裕商人である。
当時の京都は、ひとつにまとまっていたわけではない。
実際には、内裏(だいり)や将軍の居所である室町殿、公家や武士の邸宅がある上京(かみぎょう)と、主に庶民が暮らす下京(しもぎょう)という二つの地域に分かれていた。
富裕商人は上京を拠点とし、権力とも密接な関係をもっていた。
富裕商人とは、具体的には呉服商、両替商、米穀商であった。
呉服商は、公家や武士・寺社などの上流階級に対し、呉服を販売していた。
両替商は、倉庫業を行っていた土倉、酒造業を行っていた酒屋などが兼業していたもので、高利貸しのほか、信用取引などの仲介も行っていた。
米穀商は、畿内の各地から京都の米市場に集められた米穀を販売していた。
これらの商売には大規模な資本が必要であり、もともとが豪商であったといえる。
そして、そうした資本をもとに権力者へと接近し、権益を獲得していたのである。
富裕商人の顧客は、京都の上流階級とは限らない。
応仁・文明の乱後、それまで在京していた守護も帰国し各地で戦国大名化する。こうした時勢のなか、戦国大名も顧客になった。
地方の戦国大名に売られたのは、唐物(からもの)と呼ばれる中国からの舶来品、高級な織物、工芸品など嗜好品にとどまらない。 戦国の世を反映して、武具や弾薬なども扱っていた。
富裕商人は、このように権力者・有力者と結びつくことで、ますます富を蓄積していく。
権力者との個人的なつながりで、政商のような存在となった場合も少なくない。
茶屋四郎次郎の茶屋家は、もとは呉服商で、のち、徳川家康の御用商人となっている。
また、角倉了以の角倉家も、古くは土倉であり、茶屋家と同じく徳川の御用商人となっている。
この頃の京都は、日本における経済の中心地となっていた。
商圏も、京都に限らず近隣の鳥羽・淀・大津・坂本などはもとより、奈良や堺ともつながっていた。
これらの地域を結んで商品を運んでいた運輸業者が、馬借であり、車借であった。
馬の背に載せて商品を運んだのが馬借、牛に荷車をひかせて商品を運んだのが車借である。
富裕商人が営む大店(おおだな)は、京都のなかではごく一部であり、一般的な商店は小規模だった。
しかも、商人のすべてが店舗を構えていたというわけでもない。小屋掛け(仮小屋)で商品を売る店もあり露店の場合もあった。
このような小規模な店舗は、もともとは、行商による物売りから始まっていることが多かった。
日用品を行商によって販売する商人は、連雀(れんじゃく)あるいは連雀商人などと呼ばれていた。
連雀とは本来、荷を運ぶ木製の背負道具のことを指す。それが転じて、連雀を背負い、日用品を販売して歩く行商人も、連雀といったのである。
そして、こうした連雀商人の販売方法を、振り売りと呼ぶ。振り売りは、商品の名を声に出し、歩きながら商品を売っていた。
「洛中洛外図屏風」には、天秤棒を担いで売り歩く、棒手振と呼ばれる行商人も多く描かれている。
行商人には女性も多く、頭上に薪や炭などをのせて歩いた大原の「大原女(おおはらめ)」、鮎などの魚を売り歩いた「桂女(かつらめ)」などが知られている。
男女の区別はなく、むしろ女性の行商人のほうが多かったとの指摘もある。少なくとも性別による差別はなかったらしい。
行商による物売りを始めたのは、近隣に住む農民であったとみられる。
すなわち、農民の副業から始まり、やがて専業化していったというわけである。
行商がうまくいき、京都に定住する商人もいたようで、行商人から店舗商人になることも可能だった。
日用品を販売する商人は、権力者を顧客とする富裕商人とは異なり、多くは下京で商売を行っていた。
同じ商人でも階層があり、表通りには店舗を構える商人が住み、店舗を持たない行商人は、裏通りで暮らしていたようである。
商品を売るだけではなく、茶屋や飯屋といった飲食店も存在していた。
なかでも特に人気だったのは、茶屋であったらしい。
茶を飲む習慣は、戦国時代には広く庶民にも広まっていた。茶屋は、茶をふるまう店であるが、茶だけをたてていたわけではない。茶屋では、団子や餅なども売られていた。
また、常設の店舗だけでなく、茶道具を担いで人々の往来の多い場所に赴き、その場で茶をふるまう振り売りも行われていた。
日本を訪れた朝鮮通信使・申叔舟(シンスクチュ)が記した『海東諸国紀』にも、「路傍に茶店を置きて茶を売る。行人銭一文を投じて一椀を飲む」などと克明に記されている。
京都ではあらゆる日用品がすべて調達でき、現代の都市のような快適さであった。
戦国時代の京都には、公家・武士・寺社に属する人々が5万人、商人・職人が5万人ほど暮らしていたとみられている。
世界的にみても、有数の人口を抱える大都市だったといえるだろう。
当然、それだけの消費者に商品を届けるためには、物を売る商人だけでなく、物を作る職人も必要とされた。
こうした物を作る職人もまた、京都に住んでいた。
商品流通に対する需要が高かったことは間違いない。
また、戦国時代には各地に関所が設けられていて、商品を運んで関所を通るたびに関銭を徴収されていた。
このため、京都で需要のある商品は、京都で作ったほうが税をとられずに済み効率的だったということもある。
職人が支えていたのは、公家・武士・寺社といった権力者層だけでなく、京都に住む庶民の日常生活だった。
衣・食・住にまつわるものなどを作ったり、修繕したりしていたのが職人である。
職人は、自宅で作業ができる場合もあれば、顧客のもとに赴いて作業をしなければならない場合もある。
自宅で作業する職人を居職(いじょく)、出向いて作業する職人を出職(でしょく)という。
「洛中洛外図屏風」をみる限り、居職の職人は、立派な自宅で作業をしている様子が知れる。
一人前の職人は、不自由のない生活を送ることができていたものと思われる。
職人の世界もまた、商人と同じく男性に限られていたわけではない。
男女の差別はなかったようで、扇折り、組紐師などは、特に女性が活躍していた。
職人が担っていたのは、基本的には日用品である。
しかし、戦国時代には、戦乱の世を象徴するかのように、武具に関する職人も必要とされていた。
もともと京都では、古代から刀鍛冶が活躍しており、三条を本拠とした三条派、粟田口を本拠とした粟田口派などが知られている。
当初は宮中に刀を納めていたものだが、やがて武士のための作刀を手がけるようにもなっていく。
特に戦国時代には刀鍛冶の需要が高かった。
他にも弓・靫(うつぼ:矢を入れる箱)、甲冑の製造・修繕を扱う職人も多く活躍していた。
こうした職人は、職業ごとに集住していた。
これは、かつて古代に朝廷が特別な技能をもつ集団を集住させていた名残であるらしい。
たとえば、高級織物の西陣織で知られる西陣は、もともと朝廷の工房である織部司に属した職人が居住していた土地である。
応仁・文明の乱に際し、西軍が本陣をおいたことで西陣と呼ばれ、この地で作られた織物を西陣織といった。
職人が職業ごとに集住していた様子は、現代における京都の地名にも残されている。
たとえば、大工町、鍛冶屋町、瓦師町、塗師屋町、畳屋町などがそうであり、当時の名残を今に伝えている。