戦国時代の陣中の足軽(雑兵)にも娯楽や余暇はあった。酒を飲み、博打を打ち、遊女を買って遊んでいたという。
緊張状態が続く戦場だからこそ羽目を外す必要があったのだ。
賭け事では食料や衣装、武具を賭けていたというが、それも戦の役に立っていた。
命のやり取りをする戦場では、普段どおりに生真面目に生活ていると、精神的にまいってしまう。
ゆえに、雑兵・足軽と呼ばれた人々は、ことあるごとに気晴らしを求めていた。
刹那的に生きる彼らの、最大の娯楽が博打だった。
合戦は必ずしも兵力の多い少ないが勝敗を分けるとは限らなかった。桶狭間の例にも見られる通り、圧倒的優勢を誇る部隊が、指揮官の些細な判断ミスから崩壊することもある。
足軽たちがどう足掻いても、戦いの趨勢を末端の努力で挽回することなど有り得ない。
彼らにとって合戦こそある種、賭けのようなものだったのである。
初期の足軽は、自前の装備も多く、これを賭けのネタにした。
陣中の賭場(とば)では、負けて身ぐるみ剥がされた者は裸に竹槍を持ち、前線に出たという。
当時の古老の話である『塵塚物語』に、こういう連中は、精神的に追いつめられ、敵から損失を取り戻そうと立ち働くから、意外に高名手柄をたてるものだ、と書かれている。
アルコールも陣中の緊張緩和に欠かせない。
この頃はすでに半透明の上澄み酒もあったが、足軽たちにとってはほとんど縁のないものだった。
彼らが口にできるのは主に度数の低い濁り酒だった。理解のある大名家では、合戦の景気づけに自前で用意し、兵たちに配ったりもしていた。しかし、当然それでは満足できないという者もいた。
そこで、陣中で商売をする行商人の出番となる。
行商人たちは略奪暴行を基とする足軽たちの間に平然と入り込み、酒ばかりか不足する野菜、魚、餅、弓の弦なども売った。
小狡い商人の中には利ざやを稼ぐため、酒をさらに水で薄める輩もいて、これらが応々にしてトラブやからルのもとになった。
飲む、打つ、と来れば最後は買う、である。
人はいつ死ぬかもわからない戦場では種族保存本能と自棄意識から女性を強く求めた。
結果、一度滞陣という事態になると、行商人とともに遊女たちも集うことになる。
その多くは、近隣の遊女宿に登録された者か、歩き巫女、絵説き尼といった宗教者を装う商売女だった。
後者の場合も、名のある寺社が後楯になっており、比較的身元ははっきりしている。
しかし、雑兵足軽たちにとっては高嶺の花だ。
そこで行商人に化けて入り込む半素人の売春婦を相手にするか、陣所近くの村々で乱取り強姦に励むことになる。
それが、あまりにも目にあまると、陣中奉行(目付)が治安維持のために斬首した。
こうしたトラブルを防ぐため、豊臣秀吉などは、公共の娼婦宿を設置した。
『北条五代記』その他には、小田原一夜城の麓には、秀吉が西国から招いた女たちが次々に店を出し、「京、田舎の遊女軒を列べ」と記録されている。
これが関東における大規模公娼施設の始まりだったとする説もある。
敵地の農民や女性・子供を捕らえて身代金を取ったり、他国に転売する行為は、古くから行なわれてきた。
最盛期には各地に「人市」という一種の奴隷市場が立てられ、専門の商人も出現した。
乱坊狼藉は、敵地の治安を不安定化させる有効な手段とされてきた。
武将たちは何度も禁令を発して、下級兵士の略奪や放火を取り締まったが、それは表向きのことで、ほとんどの場合、非行は黙認された。
また財物を盗る・破壊する行為は、敵に対する挑発行為でもあった。
これを黙って見逃す武将は領民の支持をたちまち失う。
また、雑兵足軽は、出陣した味方の上級武士たちより戦場での待遇が極端に悪いため、その収入補填として敵地での「稼ぎ」が容認されていたのである。
特に交戦地域での人狩りは労働力の供給にもつながるため一部の大名家では奨励するところさえあった。
甲州の武田家では人狩りが激しく、周辺の人々は彼らの侵攻に恐怖した。
捕らえられた非戦闘員は、その人柄によって二貫文から十貫文で売り買いされ、引き取り手のある者は身代金と引き換えられる。※一貫文で現在の約10万円
専門の口入れ屋が業務を代行し、武将は上納を受けて軍資金とする。つまり、人取りした雑兵たちから大名も利益を得ていたのだ。
しかし、時代が進み「天下統一」の戦いが開始されると、下級兵士による乱妨狼藉を厳罰に処す武将も現われた。
永禄から元亀(1558〜73年)にかけ、畿内に進出した織田信長は「銭一文盗めば斬罪」、俗に言う一銭切りの法を定めて軍紀を厳しくした。
略奪経営による軍事活動には、利益よも弊害が大きいことを信長は理解していた。