合戦に及ぶにあたって開かれる軍評定。出陣の是非、勝算の有無から行軍の予定まで、諮られたという。
軍議には当主のほかに重臣や軍配者が出席し、作戦を検討した。作戦は当主が勝手に決めるのではなく、あくまで合議によって、大方の賛意を得る必要があったのである。
しかし重要な案件ほど、合理的な軍議だけでなく、占いやげん担ぎなどの結果で決められたともいう。
合戦に際して行われた作戦会議のことを軍評定(いくさひょうじょう)という。
軍評定では当主はもとより、重臣層らが出席して催された。
また、軍配師が軍評定に加わり、出陣する日を決めることもあった。
当主は重臣層と作戦に関する合意形成をしたうえで戦いに臨み、ときに戦いを止め和睦に転じることもあった。
天正5年(1577)10月、前年に織田信長から中国計略(毛利氏の攻略)の命を受けた羽柴秀吉(豊臣)秀吉は、播磨国加古川の糟谷館で軍評定を開催し、今後の方策を練ることにした(『別所長治記』など)。
このとき三木城主・別所長治の家臣らも軍評定に加わった。
別所氏が地元の地理に明るく、東播磨のリーダー的な地位にあったからだろう。
つまり、秀吉は彼らの助力なくして、中国計略は難しいと考えていたのである。
軍評定の席上では、別所氏の家臣・三宅治忠が作戦を献言した。
ところが、秀吉は治忠の作戦に耳を貸さなかったといわれている。
この一報を受けた別所氏は、家柄の貧しい秀吉ごときに作戦を拒否されたことを恨んだとか、やがては自らも毛利氏の二の舞になると考えたという。
このことが原因となり、別所氏は織田方から離反したともいわれている(実際は毛利方の調略に応じた説が有力)。
軍評定がまとまらず不協和音を残し終わった場合、軽くはない遺恨を遺すということである。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦に際して、信長は軍評定を催すこともなく、「敦盛」(幸若舞)を舞ったことで知られている(『信長公記』)。そして、突如として出陣を決意したという(天理本には軍評定を催したとある)。
ときに重臣の意見を聞かず、独断で作戦を遂行することもあった。
結果は、信長の作戦が成功し、今川義元を桶狭間で打ち破った。
これにより信長は、天下獲りの第一歩を踏み出したのである。
天正18年(1590)に秀吉が小田原北条氏を攻撃する際、北条方では連日のように軍評定を開き協議をした。
しかし、和睦、籠城、出撃などの案が議論されたものの、なかなか結論に至らなかったという。
それゆえ”小田原評定≠ニいえば、結論の出ない会議の代名詞となったといわれている。
実際の小田原評定とは、北条家中で月に2回催される重臣会議のことも意味する。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の直前には、有名な小山評定が催された。
同年7月24日、会津征討に向かっていた徳川家康は、その途上で石田三成の謀反を知った。
翌25日、家康は小山(栃木県小山市)に諸将を招き、軍評定を催した。これが小山評定である。
軍評定では、このまま上杉氏を討伐するか、西に反転して三成を討つべきかが話し合われた。
評定の沈黙を破ったのが、尾張清洲城主の福島正則であった。
正則は家康のために命を投げ出すことを宣言し、大坂に残した人質の妻子を見捨てる覚悟を示した。
すると、遠江掛川城主の山内一豊が家康に居城を提供すると申し出た。
以降、続々と諸将が家康の味方になると申し出たのである。
結果、反転西上した家康は、関ヶ原で三成が率いる西軍を討ち破った。
なお、小山評定については、近年では「なかった」という説が提起され、現在でも「小山評定」の有無は論争となっている。
上記に記したような熱い展開はなかったかもしれないが、小山において家康が諸大名を説得したのは事実だったと考えるのが自然であると思う。
前述の事例の多くは、軍記物語などの後世の編纂物に書かれたもので、基本的に、やや過剰に熱い展開に描かれがちではある。
軍評定の全貌をたしかな史料で復元するのは難しいのが実情である。
実際の軍評定では、陰陽道などに通じた軍配師が吉日を選んで出陣したという。
その際、籤(くじ)を用いることもあり、神慮なるものも重視されていた。
おおむねそのような手続きを経て、当主と重臣層が納得のうえ、出陣におよんだと考えられる。
軍評定とは、出陣前の最終的な合意形成の場だったのである。