家康(幼名・竹千代)は三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれた。
当時の松平家は、西に織田氏、東に今川氏という戦国大名の脅威にさらされていた。
幼い家康は松平家の首領を守る為、当初は織田氏の、続いて今川氏の下で、人質生活を余儀なくされた。
そんな少年時代から、桶狭間の戦いを機に今川氏から独立して岡崎に帰る。
家康は国内で発生した一向一揆を鎮圧、やがては三河一国を統一して、戦国大名として名乗りを上げる。
青年時代の家康をみてみよう。
徳川家康は、天文11年(1542)12月26日、三河国額田郡の岡崎城主・松平広忠とその正室・於大の方の嫡男として、岡崎城で生まれている。
このとき、父の広忠は17歳、母の於大の方は15歳だった。
家康誕生時における蟇目役(出産のときに、邪気を祓う為に蟇目を射る役)は石川清兼、臍の緒を切る御胞刀の役は酒井正親が務めている。
家康が生まれた時点で、松平氏の重臣は、石川清兼と酒井正親だった事になる。
生まれたばかりの家康は、幼名を竹千代と名付けられた。
当時は、生まれてすぐに幼名が付けられ、元服すなわち成人した際に実名に改められている。
竹千代という幼名は、家康の父広忠、祖父清康と同じであり、松平氏の家督継承者として期待されていた事が分かる。
竹千代像
松平氏は、三河国加茂郡松平郷を本拠とする一族で、戦国時代には庶流が加茂郡のほか碧海郡・額田郡・幡豆郡といった西三河四郡に広がっていた。
こうした松平一族の庶流を総称して、俗に「十八松平」という。
家康が生まれた松平氏も、もとはといえば、松平氏の庶流に過ぎない。
しかし、家康の祖父清康の頃には、ほかの松平氏一族を結集し、尾張で成長を遂げていた織田信秀をも圧倒する程の権威を誇っていたのである。
しかし、その清康が天文4年(1535)、織田信秀の支城・守山城を攻略するべき尾張に出兵した折、陣中で家臣に暗殺されてしまう。
「守山崩れ」と呼ばれるこの一件の原因は明らかではないが、織田方からの調略などが在ったかも知れない。
この直後、家康の父広忠が跡を継いだものの、清康に従ってきた松平一族の離反も相次ぎ、苦境に立たされるようになっていく。
そうしたなか、広忠は、駿河の今川義元に支援を要請したのである。
家康が誕生した時、広忠は今川氏の庇護を受ける事で、なんとか領国を維持できるという状態であった。
こうした広忠の苦境は、夫婦関係にも大きな影響を及ぼしていく。
広忠の正室・於大の方の実家にあたる三河刈屋(刈谷)城の水野氏が、松平氏から距離を置き、尾張の織田氏に付く動きをみせるようになったからである。
於大の方の父・水野忠政は、織田信秀による西三河侵攻に協力しつつ、広忠に娘を嫁がせるという政略結婚で松平氏とも同盟を結び、所領を守ろうとしていた。
その為、清康の死後も、広忠を支援していたのである。
ところが、家康が生まれた翌年の天文12年(1543)、その忠政が没してこの信元が跡を継ぐと、早くも織田信秀に従うという旗幟を鮮明にしたのである。
今川氏の庇護を受けている広忠としては、水野氏が織田氏に付いた以上、正室として留めておくワケにはいかないと判断したのであろう。
結局、広忠は於大の方を離別し、実家に送り返す事にしたのである。
こうして家康は、3歳にして実母と離れなければならなくなってしまった。
ちなみに、3歳といっても数え年であり、実質的には1歳半である。
家康は物心がつく前に、実母と生き別れになってしまったという事になる。
於大の方は、このあと尾張・阿久居城(阿久比城)の久松俊勝に再婚する事になった。
於大の方と久松俊勝との間に生まれた康元・康俊・定勝の兄弟は、家康の異父弟という事になり、後には松平姓を賜り、大名に取り立てられている。
天文16年(1547)8月、家康は人質として、駿府すなわち駿河付中(現・静岡市)の今川義元の下に送られる事になった。
この時代、大名同士が同盟を結ぶ時には、人質を送る習わしとなっていたからである。
もちろん、対等な関係であれば人質の交換がされるが、上下関係にある場合には下位の大名から一方的に上位の大名に人質を送る事になる。
いずれにしても、同盟を違えた場合には、その人質は殺される運命にあった。
岡崎から駿府へは、海路で渥美郡田原に出て、そこから陸路で向かう事になっていた。
田原を支配下に置く田原城主・戸田康光は、於大の方を離別した広忠が後室として迎えた真喜姫の実父である。
家康にとっては、血が繋がらないものの、形式的には祖父という事になる。
広忠は、戸田康光を信頼して家康を田原に向かわせたのであろう。
しかし、事もあろうに、その戸田康光が裏切り、家康を尾張の織田信秀の下に送ってしまったのである。
『三河物語』によると、戸田康光は千貫文で家康を売ったと記さている。
それが事実かどうかは不明だが、この康光の行動は落ち目の松平氏を離れ、織田氏に従う忠誠を示すには最適であったのは間違いない。
尾張の下に送られた家康は、熱田あるいは那古野(名古屋)で軟禁される事になった。
織田信秀は、家康を人質とする事で、広忠に降伏を求めたものの、広忠は今川義元に恩義を感じていたのか、織田方に降伏する事はなかった。
こうして、信秀と広忠との間での交渉は頓挫してしまうが、天文18年(1549)、広忠が急死してしまう。
病死ともいうが、暗殺されたともいう。
死因についてはよく分かっていない。
それ程、松平家中が混乱していたのだろう。
広忠が急死した後、素早い対応をみせたのが今川義元だった。
義元は、ただちに岡崎城を接収して不測の事態に備えるとともに、松平氏の重臣らに対し、妻子を駿府に移す事を命じている。
松平氏が織田方に寝返らないよう、手を打ったのである。
さらに義元は太原崇孚雪斎に命じて、織田方の三河・安祥城を攻略させた。
この安祥城は、織田信秀の子で信長の庶兄にあたる信広が守っていたからである。
信広を生け捕りにする事に成功した義元は、信広と家康との人質交換を信秀に求めたのである。
信秀が人質交換に応じた事により、家康は2年間に及ぶ尾張での人質生活から解放され、岡崎に戻った。
しかし、そのまま岡崎城に入る事が出来たわけではない。
亡き父・広忠の墓参りを終えた後、すぐさま今川氏の人質として駿府に赴かなければならなかった。
戦国大名今川氏の居館が置かれていた駿府は、戦国時代には、応仁・文明の乱による京都の荒廃を避けて下向して来ていた公家や文化人が多く滞在しており、小京都ともてはやされていた。
義元自身も、和歌や連歌にも通じており、駿府では貴族の文化が華やいでいたのである。
こうした事から、貴族趣味に溺れていたと称される事もあるが、当時の戦国大名には、文化的な素養も求められていたのだ。
戦国大名は、単に武芸に秀でていれば良い、というモノでもなかった。
駿府での家康の生活がどの様であったのかは分からない。
母のいない家康の養育に当たったのは、祖母の源応尼(華陽院)だった。
源応尼は於大の方の実母で、当時は駿府の智源院に住み、手習いなどの教育にも当たったという。
身内が誰もいない人質生活のなかで、家康は祖母に養育されながら、成長していった。
また、家康は臨済寺の太原崇孚雪斎の教えを受ける事もあったという。
太原崇孚雪斎は、今川義元に仕えた僧侶で、軍略に長けていた事から、軍師として合戦指揮を執っていた事もある。
具体的に家康がどのような教育を受けていたのかは不明だが、中国の古典などを学んでいたモノと考えられている。
弘治元年(1555)3月、家康は今川義元の居館において元服する事になった。
元服とは、成人を機に少年時代の髪型や服装などを改め、初めて冠を着用する事をいう。
家康の元服に際しては、童髪から成人用の髪に結い直す理髪の役を関口親永、冠をかぶせる加冠の役は今川義元自らが務めた。
関口親永は、今川一門の瀬名氏貞の実子であり、今川氏としては家康の元服を重視していた事が覗える。
この元服を機に家康は、それまでの幼名である竹千代から、実名である元信(もとのぶ)に改めた。
因みに、元信の「元」の字は、義元の偏諱(へんき)を受けたものである。
偏諱というのは、主君の実名から一字を拝領するもので、極めて名誉なことと考えられていた。
なお、家康の元服の年次については、弘治2年の15歳の時とする異説もあり、ハッキリとはしていない。
元服をした家康は、弘治3年(1557)、結婚する事になった。
相手は関口親永の娘・瀬名姫で、後に岡崎城の築山に住んだことから築山殿あるいは築山御前と呼ばれている。
このとき家康は16歳で、築山殿の年齢は不詳である。
関口親永は、家康の元服のときに理髪の役を務めているから、既に元服の時点で結婚は決まっていたのだろう。
因みに、関口親永の正室は今川義元の妹とされており、それが事実であれば築山殿は義元の姪という事になる。
今川氏と松平氏との同盟を強化する政略結婚ではあったが、義元としては、家康に期待する部分もあったのではなかろうか。
以後、家康は、今川氏の一門格として扱われる様になった。
家康は、結婚の翌年にあたる永禄元年(1558)2月、義元から三河・寺部城主の鈴木重辰を攻めるように命じられた。
寺部城主の鈴木氏は、家康の祖父・清康の時代から抗争を繰り返しており、この頃、織田方に付いた為である。
義元の命を受けた家康は一旦岡崎城に戻ると、家臣を率いて寺部城に向かい、城攻めを行った。
この寺部城攻めが家康の初陣とされている。
それまで、家康の家臣は、今川氏の指揮下で戦う事を強いられてきた。
その為この寺部城攻めでは“家康の指揮下で戦う事が出来る”事を喜び、涙を流す家臣もいたという。
なお、この初陣と前後して、家康は実名を「元信」から『元康』へと改めている。
元康の「康」の字は、武名の高かった家康の祖父・清康の「康」である事は言うまでもない。
初陣に際して義元の許可を得たか、あるいは初陣の戦功により義元の許可を得たか、どちらかであろう。
家康の初陣直後、松平一族である桜井城主・松平家次が、攻め寄せて来た織田軍を迎え撃って撃退した。
こうしたなか、岡崎城を守る家康の家臣・本多広孝・石川清兼らは、駿府に赴いて家康の帰還を要請したが、認められる事はなかった。
家康と築山殿との間には、永禄2年(1559)に長男・信康、永禄3年(1560)には長女・亀姫が生まれている。
しかし、妻子は駿府に留め置かれていた。
家康は元服し、見事に初陣を果たすも、人質としての立場に変わりはなかったのである。