戦国時代の戦では出陣前に軍配師が吉凶を占い、縁起を担ぎ、神頼みをしてから合戦に臨んでいた。
彼らは必ずしも合理性ばかりで戦っていたわけではなく、大事な局面でこそ神仏に祈りを捧げた。
出陣連歌を詠み、三献の儀式を執り、出陣前はタブーを避けていた。
戦国大名は神仏に畏敬の念を抱いており、出陣する前には常に神仏の加護を頼みとしていた。
元亀元年(1570)、上杉謙信は御宝前に願文(願い事を記した文)を奉納したが、そこには数多くの神仏(阿弥陀如来、千手観音、摩利支天、弁財天、愛宕将軍地蔵、十一面観音、不動明王、愛染明王など)の名が記されている(「上杉家文書」)。
多くの神仏を頼むことにより、勝利を引き寄せようとしたと考えられる。
そのようなこともあり、出陣に際しては縁起を担ぐことはもちろん、タブーを避けるための配慮もしていた。
出陣に際しては、三献の儀式が執り行われた。
『随兵之次第事』によると、三献の儀式とは最初に打ち鮑を食べ、次に勝栗を食べ、最後に昆布を食べて、酒を飲むことだった。
単に「打って、勝って、喜ぶ」という語呂合わせに過ぎないが、当時の人が験担ぎを重要視していたことがうかがえる。
出陣に際して催されたのが、出陣連歌である。
詠んだ連歌を神前に奉納することにより、戦勝祈願を行った。
出陣に際して連歌を詠むことは、勝利につながるという信仰があったといわれている。
本能寺の変の前に催された「愛宕百韻」も光秀が中国方面の援軍に向かう際の出陣連歌であった。
縁起を担ぐといえば、出陣のときに包丁を中門の妻戸に置き、越えることがあったという(『出陣日記』)。
その際、包丁の束を右に置き(先を左)、包丁の刃を外へ向けて酒を飲み、外へ出るときは包丁を越えて出陣した。これは秘事とされていたようだ。
出陣に際しては、多くのタブーもあった。
たとえば、酒を注いだ人が後ろに引くことは、戦いで後ろに引くこと(撤退)を意味するのでタブーだった(『今川大草紙』)。
ゆえに酒を注ぐ際は、前に進みながら注いだのである。
ほかにも出陣に際しての縁起はあった。出陣に際して落馬した場合、右に落ちれば凶、左に落ちれば吉というものである。
源頼朝はひょっとして右に落ちたのだろうか。
出陣の際に弓が折れた場合は、握り部分より上は吉、下は凶というものもあった。
出陣の際に、鳥が自陣から敵陣へ行くのは吉、敵陣から自陣に来るのは凶というものもある。
また、「北」という方向も、敗北や死者の北枕をイメージするのか、避けられたようである。
たとえば、具足を北向きに置くことは、敗北につながると考えたのか、タブーとされた。
誤って北に置いた場合は、すぐに向きを変える必要があった(『伊勢兵庫頭貞宗記』)。
北という字は「にぐ」と読むことがあり、それは「逃げる」に通じるので、縁起が悪かったという。
女性に関する出陣前タブーも多くあった。
武将の出陣に際しては、3日にわたり身を清める必要があった(『兵将陣訓要略鈔』)。
当然、その間は妻妾との性的交渉は禁止された。
妊婦に衣服の縫物をさせることはもとより、出産後も33日間は着るものにも触れさせてはならなかった。
その不浄により、災難に遭うといわれている。
科学的には在り得ない話であるが、そこには血穢の観念が影響していたとされる。
出陣後もさまざまな吉凶のジンクスがあった。
たとえば、旗棹は持ち手より上が折れれば「吉」、下が折れれば「凶」であった(『今川大草紙』)。
これは、先述した槍の例と同じである。根拠は不明である。
馬が厩で嘶けば「吉」、人が乗って嘶けば「凶」とされた(『中原高忠軍陣聞書』)。
※嘶く、とは、馬が声高く鳴くこと
さらに海上においては、大将が乗る船に魚が飛び込めば「吉」とされた(『応仁記』)。
これも根拠が不明であるが、飛び込まなかった場合は「凶」ということではない。
このように合戦に際しては、常に神仏を頼み、縁起を担いでいた。
それらの根拠は不明なものが多いが、長年の事例から築かれたものなのであろう。
仮に「吉」の判断が出れば、士気が高まったのだろうと思われる。
戦国特有の精神世界のことではあるが、決して無視しえない慣行だったのである。
とはいいながらも、敢えてそうした慣行を無視することもあったという。
軍配師は僧侶、陰陽師、神官などの宗教者が担うことが多く、戦勝を祈願して祈祷を行うこともあった。
なお小説や映画で描かれる「軍師」なるものは戦国時代に存在しない。
出陣前に酒が注がれた土器を投げつけて割ることや、横にしていた旗を立てて「旗上げ」することも験担ぎだった。