食べ物や飲料水はどうやって調達していたのか?
行軍4日目から食糧が支給されたが、飲み水の確保には苦労が多かったという。
雑兵みずからが芋がら縄などの携帯食を準備していたり、木の実を現地で採取したり、雨水を飲んだり、泥水を布で漉したりした。
陣中とは飢饉のような世界であった。
保存性と携帯性を両立させた数々の食糧品が用意された。指揮官が少なめにしか支給しないのには理由もあった。
戦地でこそ水の確保は生命にもかかわる最優先事項であり、飲み水を確保する為あらゆる手段がとられた。
江戸期に成立した『雑兵物語』には、武具の操作・取り扱いに交って、陣中での心構えや食料の確保法が述べられている。
荷宰領(荷物運搬差配人)の「八木五蔵」の項には、彼の助言として「敵地に入れば、何でも目につくかぎりのものを拾え。草木の実は言うに及ばず、枯葉だって馬の餌だ。松の皮はよく晒してにして食べても良い。大雨や川を渡ある時、首に結びつけた(兵糧袋の中身)が水を含んで芽を出す。田に植えても良いぐらいまで育ったら、葉や根とともに食べろ。炊飯に用いる薪は1人1日分八十匁(約300グラム)必要だが、大人数で一カ所に集まれば、少ない量で済む。薪が無い時は、馬の糞の干したものを用いろ。敵地の住民は米や衣類を土に埋める。霜の降った朝に見れば、そこだしもけ霜が消えているものだ」とある。
また、水の入手法については、「敵地の井戸には、必ず底に人糞が投げ込まれている。川の水が安全だ」「それでも国が変われば水あたりする。水に杏の実の種から取った杏仁を混ぜる。また故郷の田でとれた淡水産の巻貝の、干した物を鍋に入れて上澄みを飲め」と教えている。
以上の話は足軽個人の自給心得だが、一方、上からの支給に関しては、同書「夫丸・馬蔵」の項に、「水はとにかく大切なもので、1日1人あたり一升(約1.8リットル)。米は六合、味噌が十人に二合、塩は十人に一合」とある。
飲み水が1日1人あたり一升(約1.8リットル)とは、現代人と同じくらいの数字であり、リアリティのあるマニュアルである。
これには地域や雇用する大名の懐ろ具合で多少のバラつきが見受けられるが、江戸初期の別の資料にも、「人数10人につき1日米は一斗が基本」とされ、通常は朝1人あたり五合炊いて、朝食に二合五勺食べ、昼にも二合五勺食べる。
また昼に炊いた二合五句を夕食にまわし、夜戦に備える時は、夜にも二合五勺炊く(これは江戸期の3食制だから、2食制の戦国時代では当然二合五勺を差し引く)。
なお、一回の二合五勺は全て消費せず、心得の良い家中では必ず握り飯にして少量を保存し、不意の用意とした。
また、個人携帯の米は多くが籾米(もみごめ)か半づき米で、指揮官は3〜4日分しか渡さない。
5日分より多く支給すれば、心得の悪い足軽の中には、麹ダネを持ち込み、酒を作ってしまう者が出るという。
味噌は高カロリーで保存がきき、山野草の味つけにも都合が良いため、欠かすことの出来ない「はみもの(食品)」だった。
容器に入れて持ち運ぶことはほとんどせず、板状に干したり、団子状に丸めた固い干し玉味噌が一般的だった。
大名家の中には、独自の製法で味噌作りを行うところも多かった。伊達家の仙台味噌、中部地方の八丁味噌、西日本の麦味噌などだ。
今日もこうした軍用食の系譜を誇る御当地味噌が見受けられる。
当時の塩は、現在の我々が知る顆粒状の白塩ではなかった。焼き固めた薄黒い固型塩を用いた。
粉末の塩は湿気を吸いやすく、野外では扱いに苦労するからだ。
海岸部に近大名家では、大きな塩釜で一度に三升ほどの塩を焼き固め、足軽に支給した。
一個で1人が50日ほど使用でき、また戦地では金銭の代わりにもなったという。
塩と同等以上の利用価値を持っていたのが梅干だ。古来、日本では栽培樹の第一位とされる梅は、果実の食用以外に、染料の媒染剤、食品の保存剤、血止めにも用いられた。
これも戦国武将が栽培を奨励した結果、各地に産地が生まれたが、製造や貯蔵にはある程度のコツが必要だった。
時期を見計らった適確な収穫と塩漬け。好天の日を見定めての天日干し未熟な実は処理を誤ると青酸中毒を起こすため、梅干を漬け損じるとその家が不幸になると言い伝えられた。
通常三年越しの梅干は味も安定する。クエン酸の効果で疲労回復や食中毒の防止に役立ったが、戦場では貴重品として扱われた。
水分の不足する場所で口にすると逆に喉の渇きの原因にもなる。
むやみに消費せず、一粒の梅干を何度も眺めて唾を出すだけにせよ、と『雑兵物語』には書かれている。
その他、携帯食料には、干し葱・干し牛蒡・ぜんまい・干しキノコ・わらび粉などがあった。
これらも元々は、飢饉に備えた救荒食品として開発されたものだった。