奈良時代のパンデミック

天然痘パンデミック

全国規模の疫病流行で朝廷も大混乱

宿敵長屋王を滅ぼした藤原氏であったが、ここで日本は奈良時代のパンデミック(天然痘の大流行)に襲われることとなる。全国に蔓延した病による犠牲は甚大で、朝廷も大混乱に陥り政局は大きく乱れる。態勢を立て直すために中央政府は人事に乗り出すも、その人事が不信を生み、藤原広嗣の乱まで引き起こしてしまう。

目次

藤原四子の政権をパンデミックが襲う

729年に長屋王が滅ぼした藤原四兄弟

神亀6年(729)2月、長屋王の変に藤原四兄弟(藤原四子)が長屋王を排除したことで、藤原氏は再び政治の実権を取り戻した。
天平6年(734)には藤原武智麻呂が右大臣に昇進し、国政の責任者となった。

天平7年(735)に天然痘パンデミックがはじまる

しかし、これから藤原氏の更なる躍進がはじまるという時期に、日本は大災害に襲われ、政局は大き転換することになった。
それは、天平7年(735)に始まった、天然痘(疫瘡、豌豆瘡、裳瘡などと呼ばれた)のパンデミック(全国的な大流行)である。

735年 九州から天然痘が拡散

『続日本紀』に詳細な記述がある

このパンデミックについては『続日本紀』に詳細な記録がある。
感染は九州から広まった。8月には太宰府から「農民の感染者が多く耕作ができないので、税を免じてほしい」と朝廷に懇請があったほどだ。

平城京にも感染拡大、死者多く、不作の年に

感染は平城京にも拡大し、皇族や貴族にも死者が出ていた。
その年の最後の記事は「今年は天然痘の死者が多く、また、不作の年であった」となっている。

737年 藤原四兄弟全員が死去

翌天平8年(736)にはいったん下火になったと思われたが、さらに翌9年(737)、またも西日本から感染が拡大した。
4月には九州で多くの農民が死亡。17日には都で藤原房前が死去している。
これを皮切りに8月までに藤原四子は天然痘で全滅してしまった。

朝廷が機能不全に陥る

高級官人の1/3が死去、罹患者も多数

藤原四子以外の死者も多く、当時、四位以上の高級官人は33名いたと思われるが、そのうち11人が死亡している。
6月には朝廷は政治活動を停止していた。
罹患者、死者が多すぎて、業務がこなせなくなってしまったのだ。

総人口450万のうち100〜150万人が犠牲に

このパンデミックの研究で知られるアメリカ人の日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリス氏によれば、当時、総人口が450万人ほどだった日本で、100万から150万人が犠牲になったらしい。
死亡率はほぼ3分の1で、庶民も高級官人も死亡率では同じである。ウィルスに差別はないのだ。

態勢を立て直すも、乱の火種が…

感染症の被害状況を確り把握していた朝廷

当時、朝廷は中国を参考にした感染症の対策をとっていた。(いまでいうモニタリング制度)
感染の状況は逐一中央に報告され、だから『続日本紀』には感染状況が詳しく記録されている。
この年の正税帳(財政報告書)も「正倉院文書」に残されており、犠牲者数もかなり正確に判明している。

病原菌そのものへの有効な対策はなかった

この時代に感染症に対応する体制があったのは驚くべきことだが、残念ながら、当時の朝廷で対応できたのはそこまでだった。なにせ科学的な予防策が何もない時代だったからだ。
それでも聖武天皇は、陣頭に立ってできる限りの手を打った。
政府の機能が低下していたので、租税の免除、罪人の大赦、薬湯などの物資の配布、神仏への祈祷などだ。

人事が刷新されるも、それが乱の火種となる

死去した官人たちの後任も決めなければならなかった。
藤原四子の息子の世代も官位を得た。
藤原南家の藤原仲麻呂、式家の藤原広嗣、後に乱を起こすメンバーである。

橘諸兄が大納言に、政権を担当

諸兄は元皇族で、藤原不比等の娘を妃とした

政権を担当する大納言には、橘諸兄が就任した。元は葛城王という皇族だったが、臣籍降下して公卿となった皇親勢力の代表格で、生母は橘三千代(藤原不比等の後妻)で、光明皇后の異父兄となる。
また、妻の多比能は藤原不比等の娘だ。
皇親とも藤原氏とも関係の深い人物であり、このバランスのよさが、政権担当者に選ばれた理由だったと思われる。
パンデミックという国難の前に、勢力争いをしている余裕はなく、諸兄がバランス重視の人事をしていたら、問題はなかったかもしれない。

諸兄に対し、藤原広嗣が不信をつのらせる

しかし、天平10年(738)、右大臣に昇進した諸兄が重用したのは、藤原氏の人間ではなかった。
地方豪族出身の吉備真備と、僧侶の玄ムだった。どちらも唐からの帰国組で、その優秀さは折り紙つきだった。
とはいえ藤原氏にとって問題なのは、二人の能力ではなく、その出自だ。どちらも藤原氏の人間ではない。
諸兄は、二人を使って皇親勢力の拡大を図っているのでは?。と疑念をもったのが、藤原広嗣だった。

藤原広嗣の乱〜聖武天皇の心の傷となる

九州に左遷されていた広嗣、中央への不満も

広嗣は天平10年(738)12月に大宰少弐に左遷されていたが、左遷の理由は、広嗣の人間性に問題があるというものであった。
子どものときから凶悪で奸悪だったというのだ。
広嗣は橘諸兄の人事を、皇親勢力による藤原氏追い落としの一環と考えたという。

広嗣が中央へ上奏文を送ると同時に挙兵

天平12年(740)8月、広嗣は「真備と玄ムは政治をほしいままにしている。だから災害が続くのだ」という上奏文を都に書き送った。
しかし、上奏文が都に着くか着かないかのうちに挙兵している。それでは上奏文の意味がないが、人間性を理由に広嗣左遷したのは、正しい措置だったのだろうか。

広嗣の軍は総勢3万7000、朝廷軍は1万7000

広嗣は総勢3万7000の軍を3つに分けて、それぞれ板櫃鎮(福岡県東部)、京都郡(福岡県北東部)、登美鎮(関門海峡付近)に向け、関門海峡を渡る敵を待った。
朝廷はただちに討伐軍1万7000を派遣。同時に投降を呼びかける勅使を北九州に送った。

広嗣の軍が敗北、広嗣は捕縛され処刑

広嗣は討伐軍を三方から包囲する作戦を持っていたが失敗。
朝廷の勅使との問答もうまくこなせず、そのために配下の兵たちが討伐軍に降伏を始めた。
結果として、広嗣の軍勢は総崩れとなり、広嗣は捕縛され、ついには処刑された。

藤原広嗣の乱『山川 詳説日本史図録』より引用

藤原広嗣の乱、広嗣軍と朝廷軍の動き『山川 詳説日本史図録』より引用

パンデミックと乱後

聖武天皇は遷都と仏教にすがった

乱にまで発展し、聖武天皇の心に深い傷を遺す

広嗣の軍勢は関門海峡を渡ることさえできず、乱そのものは2か月ほどで決着した。
にもかかわらず、この反乱は聖武天皇に、精神的に大きなダメージを与えたようだ。
この後に遷都を繰り返すのである。

恭仁・近江・難波へ遷都、のちに平城京へ帰還

12月15日、山背国の恭仁京へ遷都。
しかし、工事が終わらないなか、天平15年(743)、近江紫香楽宮へ遷った(離宮)。
さらに翌16年2月には難波京に遷ったかと思うと、また紫香楽宮に遷都し、結局、天平17年(745)、平城京が再び都となった。

数度の遷都がさらに財政を困窮させる

遷都には莫大な費用が注ぎ込まれ、転居を繰り返した貴族たちの不満も大きかった。
聖武天皇もそれは承知だったはずだが、それでも遷都を実施したのは、都付近で広嗣に同調する者が乱を起こすのではないかと危惧したためだろう。
ただし、聖武天皇の遷都の理由は諸説あり、正確にはわかっていない。

遷都を重ねるも地震災害は止むことなく続いた

恭仁京は橘諸兄の本拠地であり、聖武にとっては安心できる土地なのだ。また、もともと離宮があり、聖武にはなじみの土地だった。
パンデミックなどの災害が相次ぎ、とどめのように反乱まで起きたのだ。
人心一新を図る意味でも、遷都が必要、と聖武は考えたのだろう。
しかし、恭仁京遷都の後も地震などの災害はやまず、聖武としては遷都を繰り返すほかなかったと思われる。

仏教、信仰にすがる聖武天皇

聖武が遷都とともに頼ったのが、仏教だ。
ウイルスにも自然災害にも立ち向かう術がなかった時代、すがれるものは信仰以外にはなかったのである。

仏教に平和を託した聖武天皇

国分寺建立で厄災を治めようとした聖武天

『続日本紀』によれば、天平13年(741)3月24日、聖武天皇から国分寺建立の詔が発せられた。
すべての国に七重の塔がある国分寺を建て、僧寺には僧を、尼寺には尼をそれぞれ20人ずつ配置せよというものだ。
疫病流行、地震、乱を一気に鎮めようとしたのだろう。

大仏造立の詔、大仏を造って仏に祈る

聖武天皇の仏教への帰依はそれだけでは終わらず、天平15年(743)10月には、今度は大仏造立の詔が出されている。
その内容は「天下の銅を全部使っても大仏を完成させる」というもので、聖武の並々ならぬ決意のほどがうかがわれる。

乱がおこった738年に大仏造立を思い立ったという

聖武が大仏造立を思い立ったのはその3年前の天平10年(738)2月、河内国の智識寺で本尊を見たときだといわれる。
聖武は、多くの人間が本尊の前にぬかづくのを見て、感銘を受けたのだ。
その後、藤原広嗣の乱などがあり、仏教で国家を鎮護する決心をますます固めたのだろう。

地方豪族からの寄進などを財源に造立

「天下の銅」は大げさだが、大仏の造立に大変な資材が必要になるのは間違いがなかった。
推定で約450トンの銅、約7.5トンの錫、約2トンの水銀、約0.4トンの錬金が使われた。
莫大な費用が掛かったと思われるが、地方豪族からの寄進のおかげもあり、天平勝宝4年(752)に、開眼供養会を行うことができた。
ただし、この時点ではまだ、仕上げの作業が完了してはいなかった。

豪族らにも寄進するメリットがあった

豪族たちが争うように寄進したのは、位階を得るためだ。
当時、位階の高い者は、耕した田を永久に私有することができた。
多額を寄進しても、それで朝廷から位階がもらえるのなら結果としては得だったのである。


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