律令制において、一般農民は公民(国から貢納の義務を負っている民)として支配された。
しかし、公民が直接支配されたのではなく、郷戸(ごうこ)として郷戸主を通して支配されていた。
郷戸は小家族である幾つかの房戸(ぼうこ)によって構成され、更に寄口(きこう:戸を構成する単位の一つ)や奴婢(ぬひ:奴隷のこと)を含んでいた。
公民は地域支配からは解放されていたが、公民らが住む地域の旧族長たちは律令官制のなかで地方の下級官吏である郡司(ぐんじ:国司の下で郡を治めた地方官)などの地位に就いていた。
郡司は他の律令官制と異なって世襲的な終身性であったから、郡司がその地域を治める小国の王と同義になっていた。
つまり、地方の支配者がその土地の農民を支配していた状態に、更にその上に大和朝廷が立っただけで、農民にとっては何も変わっていなかった。
朝廷や貴族・寺社の繁栄は、農民たちの思い負担の上に築かれたものであったから、農民たちの生活は苦しかった。
農民は口分田で米を作り、畑(園地)で麦・桑・稗・野菜などを作って生活した。
租(そ)の税率は収穫量の3%〜10%と比較的低いものであったが、当時の上田でも段当たり1石足らずという低い生産力を考えれば、口分田の収穫だけでは必要食料を満たす事が出来ていなかった。
租・庸・調・雑徭・出挙・兵役などの様々な負担がかけられていた。
農民のとって最も重い負担は徭役労働(ようえきろうどう)だった。
調・庸の運脚の帰途に食糧が無くなったり、病気になって行き倒れになる者も多くいた。
国司の徴発する雑徭(ぞうよう)は、農繁期を考慮されず、しかも年60日の期限を無視されるのがしばしばだった。
兵役は一人が徴発されると一戸が滅びるといわれたほどで、武芸の習練をするだけでなく、国司によって雑用に使用され、衛士(えじ)・防人(さきもり)に選ばれると1〜3年という交代期限は守られず、生きて故郷に帰れないという事もあった。
都城の造営や仏寺の建立は農民を労役に借り立て、租税負担を増す事になって、農民を苦しめた。
大和朝廷が農民たちに課していた義務は様々な分野に及び、それは農民としての枠組みを明らかに超えていた。
こういった農民たちの苦しみは『万葉集』に収録された山上憶良の「貧窮問答歌」などによって知ることができる。
奈良時代の農民たちはその苦しみから逃れるため、様々な手も尽くしていた。
私度僧という勝手に課役を免除されている僧尼になったり、戸籍・計帳を偽って調・庸などを免れようとしたり、あるいは口分田を捨てて逃亡・流浪し浮浪人となって貴族・寺社の勢力下に入ったりしていた。
乗田(剰余の田の意。律令土地法下で口分田や位田、職田などを給した残りの田)や貴族・寺社の私有地を賃租(諸国の公田を国司が人民に貸し、その賃貸料として地子を取った制度)して生活を補ったりしていた。
こうして班田農民は分解していき、律令体制の基礎を揺るがした。
農民にとって過酷過ぎる班田制は構造的に長続きさせるには無理があった。
その事はまた貴族たちに大土地所有への熱意を呼び起こし、それらが積み重なって、律令体制を崩壊させていく。
8世紀後半になると「荘園」と呼ばれる貴族・寺社の私有地が各地につくられるようになり、班田農民もその荘園の中に入って行く。
これは農民が公民(朝廷の民)という立ち位置を離れる事を意味していた。
地方で大きな力を蓄えていった農民たちは、自分たちの土地を守る為に武装し、やがて武士と呼ばれるようになっていった。