足利持氏と将軍

足利持氏と室町将軍の対立

鎌倉公方vs足利将軍

鎌倉公方の足利持氏は関東支配を確立しようとするが、四代将軍足利義持・六代義教と対立する。
持氏は敗北し自害に追い詰められ、勝利した義教は恐怖政治の果てに守護大名の赤松満祐に暗殺されてしまう。
将軍暗殺という大事件は以降の幕政を大きく揺るがす事になる。

関東統治を委任された鎌倉府

室町時代、幕府から東国の統治を任された機関が「鎌倉府」であった。
この鎌倉府を預かるのが鎌倉公方であったが、しばしば騒乱の原因となった。

足利尊氏によって鎌倉公方が設置

建武の新政の頃、足利尊氏の弟・直義が鎌倉で政務を執ったのが始まりだった。
その後、鎌倉には尊氏の四男・基氏が置かれ、基氏の子孫が代々の鎌倉公方となった。
また、鎌倉公方の補佐役が関東管領で、代々上杉氏が就任した。

鎌倉府は独立志向が強かった

鎌倉府の権限は非常に大きく、鎌倉公方は幕府からの自立心が強かった。
また、関東管領は鎌倉公方の抑え役を期待されていた為に「鎌倉公方vs将軍」や「鎌倉公方vs関東管領」の紛争が頻発したのである。

鎌倉公方・足利持氏

第四代・鎌倉公方の足利持氏の時代にもそうした構図の戦乱が相次いだ。
まず、1416年(応永23年)に前関東管領の上杉禅秀(氏憲)が反乱を起こす。
持氏は鎌倉を追放されるが、幕府の支援によって反乱は鎮圧された。

持氏と将軍足利義持が対立

その後、関東支配を確立しようとする持氏と、持氏を警戒した四代将軍・足利義持の関係が一時緊迫。
持氏が恭順することで危機を回避した。
持氏は義持の猶子(儀礼的な親子関係)となり、後継者になれるという期待も抱いた。
義持の子で五代将軍の義量が早世していたからだ。

恐怖政治が将軍暗殺事件を招く

次期将軍をクジ引きで決めてしまう

1428年(正長元年)、将軍・義持が後継者を指名せぬまま死去した。
しかし、次代の将軍は義持の弟たちから神前でのクジ引きで選ばれることになり、持氏の期待は裏切られた。

クジ引き将軍、足利義教

クジ引きで後継者に選ばれた義円は還俗して足利義教(初め義宣)と名を変え、六代将軍に就任。
義教の治世の始まりは、大規模な一揆が起きるなど将軍の権威は揺らいでいた。
しかし「神に選ばれた将軍」という慢心があった義教は、寺社や守護大名などの敵対者に断固とした態度で望む。

義教と持氏が対立、永享の乱

関東管領・上杉憲実

一方、義教の継承に不満を持つ持氏は、幕府に反抗的な態度を見せるようになる。
1438年(永享10年)、持氏は嫡男の元服の際、将軍から一字を拝領する「偏諱」という先例を無視した。
これに反対した関東管領・上杉憲実が持氏に追討されたことで永享の乱が勃発する。

持氏が自害

将軍・足利義教は、上杉憲実に味方し持氏の追討命令を発した。
持氏は出家して許しを願ったが、義教は許さず、持氏は自害に追い込まれた。

義教の恐怖政治

些細な理由で容赦なく罰する義教の支配は「万人恐怖」と評された。
開鶏に多くの見物人が集まって義教の通行の妨げになった時、激怒して洛中の鶏の追放令を出した程であった。

将軍暗殺、幕府の権威が失墜

嘉吉の変

粛清を恐れた有力守護大名の赤松満祐は、義教を屋敷に招いて暗殺した。
将軍が暗殺されるという事件は室町幕府と足利将軍の権威を大きく傷つけた。
義勝・義政と幼少の将軍が続いたこともあり、将軍の力は衰えていく。

赤松満祐

赤松氏は播磨(兵庫県西部)・美作(岡山県北部)・備前(岡山県東部)の三カ国を治めていた守護大名。
将軍義教のもとでは守護大名の粛清が相次いでおり、満祐は警戒を強めていた。
「義教が満祐の所領を没収する」という噂が流れたため暗殺を決意、義教を屋敷に招いて暗殺した。
満祐は屋敷に火を放って領国の播磨に引き上げるが、その後幕府の追討を受け自害した。
この時、赤松氏の領国は山名氏が継承。
赤松氏と山名氏の因縁は、応仁・文明の乱の一因にもなった。


↑ページTOPへ