1868年8月、白河城と二本松城を落城させた新政府軍は、会津へ侵攻。
会津藩兵は国境付近で食い止めようとしたが、会津城へ侵入された。
約一ヶ月の籠城の末、会津藩は降伏した。
会津藩と新政府軍との戦闘は、1868年閏4月、古代から東北の玄関口である白河で始まった。
白河における戦いを指揮したのは、会津藩家老・西郷頼母(西郷隆盛と直接の関係はない)であった。
しかし5月1日、白河城は新政府軍の手に落ちてしまう。
さらに7月29日、新政府軍は二本松城を陥落させた。
二本松から会津に攻め込む為、8月21日、板垣退助・伊地知正治らが率いる約2000人は、旧幕臣・大鳥圭介らが守る母成峠を急襲。
これを突破すると、猪苗代湖まで兵を進めた。
母成峠陥落陥落の報せに会津藩主・松平容保は自ら出陣し、滝沢村に本陣を置いたが、会津藩劣勢を知ると若松城へ帰城する。
このとき、容保とともに出陣していた少年部隊「白虎隊」二番隊は、新政府軍の攻撃を受けて飯森山まで退却し、燃え上がる城下を見て自害した。
23日、新政府軍が甲賀町口を突破して若松城に迫ると、城下の武士の家族は続々と城へ入った。
このとき、砲術師範役・山本覚馬の妹・八重はスペンサー七連発銃を携えて入城している。
なお、このとき西郷頼母の妻子など親族21人は、足手まといになるのを苦にしたため自害した。
新政府軍は一旦は外郭まで撤退し、包囲網を布いたため、城外の会津兵は援軍に向かえなくなった。
さらに、新政府軍は城の東南の小田山に陣を置き、そこから1日に2000発の砲弾を城内へ打ち込んだ。
9月14日、新政府軍は総攻撃を仕掛けたが、若松城は持ちこたえた。
しかし、城外にいた会津兵が全て会津盆地から追いやられ、頼みとしていた米沢藩が降伏してしまう。
さらに、若松城天守は激しい砲撃によって壊滅的な被害を受けており、また、城内では食糧や弾薬も尽きてしまっていた。
そして9月22日、容保は降伏し、若松城を開城した。