木梨軽皇子(きなしのかるのみこ:允恭23or24〜42年)は第19代・允恭天皇の第一皇子。 実の妹との禁断の恋に身を焦がし、皇太子の座を棒に振ったとされる。 数々の歌ととも知られる悲劇の皇子であるが、それらの説話は政治的に捏造されたものと疑われる。
『古事記』によれば允恭天皇24年(or23年)、5世紀始めの話である。
允恭天皇の皇太子・木梨軽皇子が妹・軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)を好きになったという。※この時代、正確にはまだ皇太子という制度はなかったとおもわれる
皇女は衣を通しても美しさが伝わるほどの美貌から「衣通姫(そととおりひめ)」と呼ばれており、皇子の恋心に無理はなかったが、一つ問題があった。2人は同母兄妹だったのだ。
この時代、近親者の結婚は珍しくはなかった。しかし、さすがに母親を同じくする兄と妹、姉と弟の結婚は、大きな穢れが生じるとしてタブーだった。それでも軽皇子は妹のいる屋敷を訪れ、恋の歌を詠んだ。
「山の高みに 稲田をつくり 水を引くため 樋を通す 人に隠れて 愛をば語り 人に隠れて ひとり泣く ついに会えたる 愛しき妹よ 今宵一夜を 共にせん」
この歌に込められた兄の熱意に、衣通姫も一夜だけならと兄を屋敷に招いた。しかし、2人はそのままそこで暮らし始めてしまい、当然、このことは世間に知れた。
朝廷(ヤマト政権)の中で、軽皇子の評価は急落。
皇太子としては不適格なので、弟の穴穂御子(あなほのみこ)を代わりの皇太子にという声が高まった。
軽皇子の恋は、皇位継承権争いに発展してしまったのだ。となれば、武力で決着をつけることになる。 そこで軽皇子は物部大前宿禰、物部小前宿禰という腹心の兄弟の屋敷に逃げ込み、合戦に備えた。 穴穂御子側は大軍勢で兄弟の屋敷を囲んだ。
勝ち目なしと見た物部兄弟は軽皇子を裏切り、軽皇子を穴穂御子に差し出した。 こうして軽皇子は皇太子ではなくなり、伊予国の道後へと流された。
軽皇子が伊予国へと流された理由は、都で生かしておけば、必ず軽皇子をかついで内乱を起こす者が現れるからだろう。 この手の【皇位継承戦に敗れた者が都を追われる】【追放された後にはひたすら悪く言われる】という事例は、この後の日本史において無数に出てくることとなる。
穴穂御子は軽皇子をそれほど憎んではおらず、せめて温泉のある道後を配流先に選んだのだった。
出発の際に衣通姫は、兄に歌を詠んだ。
「草の茂れる 阿比泥の浜は 牡蠣の欠片で 足を切る 朝をひたすら 待つのが利巧 日の出見てから 行きなさい」
すぐに都に戻れるだろうという歌だ。(なお、阿比泥の浜がどこを指すのかは不明)
衣通姫の期待にもかかわらず、軽皇子は許されなかった。
やむなく衣通姫が伊予に流された軽皇子を訪ね、2人はそこで再会した(自害したともいわれている:衣通姫伝説)。
『日本書紀』では、允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が死去した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。
結果的に軽皇子は恋のために皇位を捨てた形になる。
似たような海外の事例として、当時(1936年)、離婚歴のあるアメリカ人女性との結婚のために王位を捨て、「王冠をかけた恋」と騒がれたイギリスのエドワード8世の件があげられる。
軽皇子と同母妹との悲恋だが、史実だったと捉えるには早計ではないだろうか。
この戦いは、中身としては、軽皇子と弟の穴穂御子による純粋な政治闘争であり、軽皇子は敗れて配流されている。
悲恋そのものには全く意義はなく、いかにも「再起をつぶす為にレッテルを貼った」という印象を受ける。
「衣通姫伝説」として知られるこの物語は、2人を中心として登場人物が多くの歌を詠んだことから歌物語としても知られているが、実際には別人の創作だろうと考えられている。
おそらくは、兄弟相争う醜い政争の実体を覆い隠すために、こういう物語が創作されたのではないか。弟・穴穂御子は兄を気遣っていたいうあたり、いかにも「勝者がつくった歴史」である。
イギリスの「王冠をかけた恋」にしても、エドワード8世は親ナチスだったので政界から退位を迫られたともいわれている。