親王将軍

摂家将軍・親王将軍

源氏将軍3代の後の4代・5代の将軍は摂関家出身であることから摂家将軍(公卿将軍)、6代〜9代は皇族出身のため親王将軍と呼ばれる。
いずれも幼少で将軍の座に就き、政治の実権は執権である北条氏が握っていた。
執権・北条氏時代の将軍は“お飾り”でしかなかったが、朝廷が輩出した人物を将軍に据えるという人事は公武協調の象徴となり、後の、幕府朝廷の協調関係の前例にもなった。
>> 鎌倉幕府の歴代・将軍と執権

源氏将軍の血筋が絶たれる

三代将軍・実朝が暗殺される

1219年(建保7年)の正月27日、朝廷から右大臣に任じられた源実朝は、その祝いの為に鶴岡八幡宮で拝賀に臨んだ。
それが終わり、八幡宮から退出するところで事件は起きた。
鶴岡八幡宮の別当である公暁(源頼家の遺児)が「親の敵はかく討つぞ」と叫んで実朝を殺害したのである。
かつては公暁による犯行の「黒幕」を想定する説が乱立していたが、近年では公暁が鎌倉殿への就任を狙って起こし単独犯行であると考えられている。

実朝には実子がいなかった

実朝が暗殺され、また、実朝に実子がいなかったことにより、源氏嫡流は断絶する。
実朝政権の最大の悩みは、実子が誕生しなかった実朝の後継者問題であった。
そこで、北条政子を中心に、この問題が実朝の生前より議論されていたと思われる。

実朝と後鳥羽は関係良好だった

1218年(建保6年)、政子とその弟・北条時房が上洛し後鳥羽上皇に強い影響力を持つ卿二位・藤原兼子を通じて、後鳥羽皇子の鎌倉下向を要請した。
その結果、将来的に皇子を将軍として鎌倉へ下向させることへの同意が得られたようである。
この内諾が得られた背景には、後鳥羽と実朝との和歌の交流に代表されるように、公武関係が良好であったことがあげられる。

実朝の死後、後鳥羽は態度が硬化

しかし、実朝暗殺の後、後鳥羽は態度を硬化させる。
幕府は再び親王の東下を要請するが、後鳥羽は拒否した。

三寅(藤原頼経)が次期・鎌倉殿に

朝廷・幕府で交渉が重ねられた結果、頼朝と血縁関係にあった藤原(九条)道家の子・三寅(後の頼経)を鎌倉殿として下向することになった(「摂家将軍」の始まり)。
実朝の官位昇進コースは清華家以上であり、鎌倉殿を継承するためには、それ以上の家格を有する人物でなければならなかったと考えられる。

尼将軍・政子が実質・四代目鎌倉殿

政子の存命中は、三寅ではな政子が暫定的に鎌倉殿の役割を果たした。
すなわち、承久の乱直前の幕府は、三寅を擁立しつつ、実質的には政子をトップとして北条義時・大江広元らによって主導されたのである。

幕府と朝廷の協調体制が構築

北条泰時が三寅を支えた

1225年(嘉禄元年)に政子が没すると、執権・北条泰時は三寅を元服させ、朝延に働きかけて征夷大将軍に就任させた。
また、頼家の娘・竹御所との結婚を進め、摂家将軍家と源氏将軍家との結合を図った。
一方、成人した頼経も、次第に政治的な存在感を増していった。
また朝廷では子息が摂関・将軍の地位を占めた道家の権力が絶頂期を迎えており、九条家を軸として、公武協調体制が構築されていったのである。

九条家の存在感低下、朝幕関係も揺れる

ところが1242(仁治3年)、幕府が擁立した後高倉皇統の四条天皇が12歳で急逝した際、幕府は道家ら朝廷の大方の貴族が推した忠成王(順徳天皇の皇子)ではなく、邦仁王(土御門天皇皇子)を後嵯峨天皇として即位させた。
この人事は、得宗家と土御門皇統が、源(土御門)通親・定通の一族を介して縁戚関係だったことが決め手とみられる。
後嵯峨の即位で、九条家の存在感は低下し、道家の権勢も長くは続かなかった。

藤原頼嗣が5代将軍に

1244年(寛元2年)、頼経は後妻との間に生まれた頼嗣に将軍職を譲り、自らは「大殿」として君臨した。
「大殿」とは摂関家の家長に用いられる呼称であり、摂関家出身であった頼経の「家」は摂関家に準じる存在であったといえる。

公武協調の象徴となった「親王将軍」の誕生

摂家将軍家と北条得宗家の協調を目指す

執権・北条経時は、妹の檜皮姫と頼嗣とを結婚させることで、摂家将軍家と北条得宗家との協調を目指した
一方、頼経・頼嗣周辺には将軍派=反得宗派が形成され、得宗政権にとっては見過ごせない存在となっていたが、経時には残された時間が少なかった。
同4年閏4月、体調を崩していた経時は「寄合」で弟の北条時頼に執権を譲り、6月に死去した。

またも鎌倉がキナ臭い空気に

その前後から鎌倉では騒動が発生し、頼経と名越光時とを中心として、時頼を排斥しようとする陰謀が露顕した。
それにより頼経は京都へ送還され、名越氏など将軍派の勢力が削減されたのである(「宮騒動」や「寛元の政変」と呼ぶ)。

建長の政変

そして京都でも、後嵯峨院政が始まり、後嵯峨は得宗家と連携しながら九条家の排除を画策した。
その結果、頼嗣は1252(建長4年)に将軍を廃され、朝廷でも道家の一族は失脚した。

「親王将軍」の始まり

この情勢下で、時頼が後嵯峨に皇子の将軍就任を打診し、宗尊親王の関東下向が決まった。 親王将軍の誕生は、幕府の社会的な位置づけの上昇をもたらし、後嵯峨にとっても公武協調の象徴として機能したのである。

鎌倉幕府の将軍と執権の推移

鎌倉幕府、歴代の将軍と執権の年表

将軍名 在職年 執権名 在職年
大倉御所 源頼朝 1192年7月12日〜1199年1月13日
源頼家 1202年7月23日〜1203年9月7日
源実朝 1203年9月7日〜1219年1月27日 北条時政 1203年9月〜1205年閏7月19日
北条義時 1205年閏7月20日〜1224年6月13日
宇都宮逗子御所 藤原頼経 1226年1月27日〜1244年4月28日 北条泰時 1224年6月28日〜1242年6月15日
若宮大路御所 北条経時 1242年6月15日〜1246年3月23日
藤原頼嗣 1244年4月28日〜1252年3月21日 北条時頼 1246年3月23日〜1256年11月22日
宗尊親王 1252年4月1日〜1266年7月4日 北条長時 1256年11月22日〜1264年8月11日
惟康親王 1266年7月24日〜1289年9月14日 北条政村 1264年8月11日〜1268年3月5日
北条時宗 1268年3月5日〜1284年4月4日
久明親王 1289年10月9日〜1308年8月4日 北条貞時 1284年7月7日〜1301年8月22日
守邦親王 1308年8月27日〜1333年5月21日 (以降)北条師時、宗宣、煕時、基時、高時、貞顕、守時

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