牧氏の変

牧氏の変、義時が父に背く

目次

牧氏の変(牧氏事件)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。北条義時が父・北条時政のクーデターを事前に察知し、これを阻止。時政は失脚する事となる。 義時はそれまで常に時政に対しては忠実であったが、遂に時政に対して牙をむき、父を追放した。 この事件以降、義時が鎌倉幕府の二代執権となり、幕政を司ることとなる。

時政と義時、父子の対立

義時と政子がタッグで動く

畠山重忠の乱をきっかけとして、北条時政・牧の方と北条義時との対立は決定的なものとなった。義時は姉・政子と協力して、父・時政と牧の方の追い落としを計画する。

畠山重忠の乱とは

畠山重忠の乱は、元久2年6月22日(1205年7月10日)、武蔵国二俣川(神奈川県横浜市旭区)において、畠山重忠が武蔵掌握を図る時政の策謀により、義時が率いる大軍に攻められて滅ぼされた出来事。時政が牧の方も讒言を鵜呑みにした事で起こった事件であり、義時は義兄弟(畠山重忠)を無実の罪で死に追いやってしまった。

時政がクーデターを画策、しかし失敗

時政は娘婿を次期将軍にしたがる

これに対し、時政と牧の方は源実朝を将軍の座から引きずり下ろし、自分たちの娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)を次期将軍に擁立するクーデターで巻き返しを図ろうとする。

娘婿・平賀朝雅、名門の生まれで将来有望だった

朝雅は頼朝の猶子(養子)でもある有望株であった。父の平賀義信は源氏の名門である新羅三郎義光の血を引く武士で、母は頼朝の乳母として影響力を発揮した比企尼の三女である。元久元年(1204)、伊勢・伊賀などで平家の残党による反乱が勃発。守護の山内首藤経俊が鎮圧に失敗して解任されると、朝雅は速やかに反乱を鎮圧して伊勢・伊賀の守護に任じられている。

クーデター計画が義時にバレてしまう

しかし、この計画はすぐに義時の知るところとなってしまう。
義時と政子は機先を制して、三浦義村や結城朝光を派遣して時政の屋敷にいた実朝の身柄を義時の屋敷に移した。

既に人望を失っていた時政が孤立する

人望のあった畠山重忠に無実の罪を着せた時政は、もはや御家人たちの信望を失っていた。時政派の御家人たちのほとんどが義時派に寝返ったため、時政は完全に孤立。クーデター計画は未遂に終わった。

時政の失脚

時政は歴史から姿を消すことに

時政は出家して、伊豆の北条へ下向した。牧の方の兄(父ともされる)である牧宗親の子・大岡時親も出家した。
朝雅は義時に派遣された山内首藤通基(経俊の子)に京都で殺されている。

時政の死後、牧の方は京都へ移住

この事件以降、時政は二度と歴史の表舞台に立つことはなかった。建保3年(1215)、時政は北条でひっそり死んだ。なお、牧の方の没年は不詳だが、時政の没後も生き続け、やがて京都に居を移してそこで余生を過ごしたことが確認できる。

義時が二代執権に就任

義時が鎌倉幕府のトップになる

牧氏の変を経て、時政に代わって義時が政所別当に就任した。
鎌倉幕府の執権というポストが確立するのはもう少し後のことであるが、この義時の政所別当就任をもって、義時が鎌倉幕府の二代執権になったと一般的には解釈されている。


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