鎌倉市長谷の寺院、高徳院にある国宝・銅造阿弥陀如来坐像は、「鎌倉の大仏さま」として知られる鎌倉の象徴である。
この鎌倉大仏は高い知名度を持ちながらも、実はその素性は多くの謎に包まれている。
鎌倉大仏はいつ、誰が何のために造立したのかを簡単にまとめる。
かつては大仏殿があったと考えられているが、現在ではその姿は失われており、恐らく台風や津波によって大仏殿は崩壊したとおもわれる。
鎌倉大仏に関する史料は限られているため、知名度の高さに反比例して実態は謎に包まれている。
たとえば、造立の経緯や目的、完成時期などは研究者の間でもさまざまな説が出されており、見解が分かれている。
ここでは『吾妻鏡』(鎌倉幕府の歴史書)の記述を中心に、造立の過程をまとめる。
なお、『吾妻鏡』は北条氏によって編纂された北条氏の正統性を示すための書物という側面もある為、その内容は必ずしも鵜呑みにする事は出来ない。
暦仁元年(1238)3月、浄光房という僧の勧進によって大仏堂造営の事始がおこなわれた。
仁治2年(1241)3月には大仏殿の上棟式があり、それ以前に木造の「八丈余阿弥陀像」が完成したようである(『東関紀行』の記述による)。
そして寛元元年(1243)6月、大仏殿の完成と供養がおこなわれたが、建長4年(1252)8月には同じ場所で「金銅八丈釈迦如来像」の鋳造がはじまった。
「釈迦如来像」は「阿弥陀像」の誤りとされており、この年に鋳造が始まった金銅像が、現在の鎌倉大仏を指すと見られている。
完成時期は未詳であるが、弘長2年(1262)8月から年末の間に完成したようである。
この時期、律宗僧の叡尊が鎌倉に招聘されており、幕府は律を中心として念仏・禅をそれに従属させるような宗教体制の構築を企図していた。
そして、そのような体制の頂点に位置づけられるのが鎌倉大仏だったのである。
先に述べたように鎌倉大仏は浄光房による勧進活動によって造られた。
彼が延応元年(1239)に鎌倉幕府に提出した文書では、これまで勧進を許されていた東海・東山・山陰・山陽の各道に加えて北陸道での勧進の許可申請と、一人あたり銭一文を徴収する計画が記されている。
このように、大仏の造立には鎌倉幕府の支援があったことがわかる。
また、徴収した銭貨(中国から輸入された銅銭・宋銭)を利用して鋳造された可能性が指摘されている。
このとき用いられた銅銭・宋銭は、北条氏得宗家や一門の所領から年貢として納入された金や水銀を輸出した対価として輸入されていた。
また、金や水銀は大仏に鍍金をほどこす際にも用いられた。
すなわち、鎌倉大仏は、北条氏をはじめとする幕府有力者が保有していた金や水銀、それらを輸出することで獲得した銅銭を鎌倉に結集させることによってはじめて完遂した。