永仁の徳政令、1297年3月30日(永仁5年3月6日)に鎌倉幕府の9代執権・北条貞時が発令した、日本で最初とされる徳政令。
「徳政」とは「徳のある政治」善政を指し、「本来あるべき姿に戻す」ことも善政とされた。
それにのっとり、幕府はモンゴル襲来直前の時期に御家人の所領を取り戻し、御家人の統制と所領移動の抑止を目的に、徳政令を実施した。
永仁の徳政令を簡単にまとめる。
1297(永仁5)年に出された永仁の徳政令は、以下のような内容に整理される。
なお、厳密には、正確な条文は不明で、東寺に伝わる古文書『東寺百合文書』(1344年)に記された内容が一般に知られている。関東御徳政、関東御事書法とも呼ばれる。
中世の「徳政」は、般的に債権務関係を破棄することを指したが、もともとは「徳のある政治」すなわち善政を意味していた。
そのなかでも、「本来あるべき姿に戻す」ことも善政と見なされており、したがって、Aにあるように、土地やモノをもとの持ち主に戻すことは、現代の私たちから見れば奇妙に思えるが、当時の観念に照らせばまさに「徳政」を体現していたのである。
鎌倉幕府は、モンゴル襲来直前の1267(文永4年)に御家人所領の取り戻しを命じており、それ以降、たびたび同様の命令を出している。
そして、永仁5年に出された徳政令は、当時から「徳政御沙汰」と呼ばれており、社会に大きな影響を与えた。
この法令が出された背景として、モンゴル襲来やそれにともなう異国警固番役の負担、分割相続の進行による所領の細分化などによって御家人が困窮し、彼らが所領を手放すような事態に直面した幕府が、御家人を救済するために発令されと理解されてきた。
しかし、御家人所領の取り戻しは付帯事項に過ぎず、徳政令主文は、@にあるように御家人たちが自らの所領を売却したり質入れしたりすることを禁じることにあった。すなわち、幕府は御家人の統制と所領移動の抑止を企図して徳政令を出したのである。
御家人の所領は、彼らが幕府に奉公するための経済的基盤であるため、『御成敗式目』第四十八条にも「御恩」として与えられた所領(恩領)の売却を禁止する条文を設けるなど、所領移動の統制に関心を払っていた。
さらに、のちには恩領だけではなく御家人所領一般に売却禁止の対象が拡大され、御家人間での所領移動も制限された。
このように、13世紀中葉より幕府は御家人所領の保護・統制政策をおこなっており、その流れのなかで永仁の徳政令が出されたのであった。
また、BやCにあるように、借金関係の訴訟の不受理や越訴(いったん下された判決を不服とする場合、再審理を求めて訴えること)の廃止という点からも、永仁の徳政令における御家人統制の側面を見出すことができる。
永仁の徳政令は、瞬く間に日本全体に広がったことが知られるが、それは付帯条項だったAの情報であった。
さらに、御家人を対象にした法令だったにもかかわらず、これを根拠に御家人以外の人々の間でも所領の取り戻しがおこなわれた。
このように幕府の意図を超えて独り歩きを始めてしまった永仁の徳政令は、翌・永仁6年2月(1298)に撤回されるた。
しかし、Aの御家人所領の取り戻しのみは、引き続き有効とされた。