日本国内の縄文時代の主な遺跡をまとめる。大船遺跡や三内丸山遺跡など北海道と東北地方を中心にまとめているが、順次、追記予定。
周囲に住んでいた人々の墓か、堤に守られた集団墓地
北海道千歳市の標高15〜21メートルの斜面部に造成された墓遺構である。環状土籬または周堤墓と呼ばれる円形の竪穴に掘りあげた土をドーナツ状に周囲に堤とした墓で、縄文時代後期の北海道で発見され、中でも石狩平野の千歳市周辺に集中している特殊な遺構である。本遺跡では削平された4基を含めて計18基発見されている。最大で外径83メートル、周堤の高さは約4.7メートルで、推定土量は約3000uといわれている。周堤内の土坑墓には、赤色顔料ベンガラを敷く例も検出されている。周囲には竪穴住居跡70軒、掘立柱建物跡50棟、周堤墓21基が北海道横断道路建設に伴い発掘されている。この発掘では、長さ180メートルクラスの盛土遺構も2ヶ所発見され、同遺構内に埋蔵されている遺物数はヒスイ製玉類20点を含む約200万点以上と推定されている。その中には、独特な「動物形土製品」もあり、墓遺構に伴う祭祀行為に使用されていたようである。
祭祀で使用か、焼けて変形したクジラ骨の刀が出土する
北海道伊達市のチマイベツ川北側標高10〜20メートルの丘陵上に所在する約3000年近く継続された縄文時代前期の集落遺跡。昭和25年(1950)地元の高校教員により発見され、その後の発掘調査で竪穴住居、墓、貝塚、水場遺構などが検出している。水場遺構は4地点確認され、どれも貝塚から離れており、両者が混在して汚染されることを意図的に忌避していたことがわかる。この遺構からは、1200点以上の調理に使用した石皿、磨石が発見されており、その99パーセントが欠損していることから全てが使用済品といえる。貝塚からはハマグリ、カキ、ホタテなどが、マグロ、ヒラメなどの魚骨、オットセイ、クジラの海獣骨も発見されており、漁労中心集落だったことがわかる。注目された遺物に、クジラ骨の刀があり、焼けて変形していることから何らかの儀礼に使われていたようだ。また、シカの頭骨を使った「動物儀礼」と思われる遺構も見つかっており、同種の動物儀礼遺構は千葉県取掛西貝塚でも確認されている。
貝の道が日本を縦断していたことを証明した遺物が出土
噴火湾に面した北海道洞爺湖町の標高20メートルの段丘上にある縄文時代後期の遺跡。昭和17年(1942)海軍工場建設に伴い発見され、戦後数次にわたる調査が実施された。その結果、多数の住居跡と土坑墓群が検出され、貝塚からはアサリ、イガイやカサゴ、ニシン、スズキ、マグロ、エゾシカ、イルカなどが発見されている。動物の骨で製作された「離頭銛」の出土も多く、漁労活動の活発さがわかる。遺物の中で沖縄より南に生育するオオツタノハ貝(長さ6.2センチ)、ベンケイガイの貝輪が出土。ちなみにこのオオツタノハ貝輪は現在最北の出土例である。さらに、注目されたのがイノシシ製の牙で製作された歯形の装飾品で、北海道にはイノシシが生息していないため、どこで骨を取得したのか疑問となっている。また墓から成人男性で「筋萎縮症」に罹患していた人骨が検出されており、幼児期から長期間ムラの周囲の人々から介護をうけていたと推測されている。
抜歯した人や胎児、妊婦など様々な人骨が出土する
入江貝塚の北にあり標高10メートルの低地に所在する縄文時代晩期の遺跡である。貝塚と墓域で構成され、墓は土坑墓と配石遺構からなり、墓内からは石器、石製品とともにベンガラという赤色顔料も出土しており、抜歯痕のある人骨や胎児骨と一緒に妊婦と思われる女性骨も発見されている。晩期の土器中に赤色顔料が口縁部まで充填されている例も発見されている。この時代の赤色顔料は、漆工芸や土偶などの表面に塗布される例品が多く、貴重な遺物である。貝塚からは、タマキビ、ホタテ、アサリなどの貝類、カレイ、ニシン、マグロなどの魚類、エゾシカ、イルカなどの哺乳類骨も多く出土している。特に、アサリやカレイが多いため、貝塚周辺には砂浜が発達していたが、一時的に寒冷化が進んでいたようである。また、土偶の中には口をポカンと開けたようなユーモラスな表情の例もある。この高砂貝塚と近い上記の入江貝塚は共通する部分も多く、関連状況が注目されている。
祭祀や儀礼に使用されていたか?最大級の盛土遺構
大船遺跡の南側、函館市の海岸段丘標高42から49メートルに所在するコ字形の高台に縄文時代中期〜後期の住居跡と早期の土坑墓群で構成されている遺跡。その結果、約9000年前から約3000年前までの6000年間集落が継続していたと思われ、さらに居住域と墓域が明確に分離されていた。平成12年(2000)から本格的な発掘調査で漆塗り注口土器や香炉形土器など精巧で芸術的な遺物が住居跡から出土土坑墓からは「足形付土版」が17点出土した。これは、0〜3歳の幼児の足を押し付けた土版に孔を1〜2ヶ空けたもので、亡くなった幼児の追悼のため製作したものと思われる。一方、漁網用の石錘が多数出土していることから、漁業資源獲得活動も活発化していたことがわかる。紀元前2000年頃構築された長さ190メートルを越える大規模盛土遺構は国内最大級と考えられ、出土した多種多彩な遺物類から何らかの祭祀や儀礼が行われていたと推定されている。
水産資源や森林資源に恵まれ縄文人は長期間住み続けた
函館駅から北方に車で約1時間、函館市大舟川の標高30〜50メートルの海岸段丘上の100軒を超える縄文時代前期末から中期にかけての約5500〜4000年前の集落遺跡。平成15年(2001)には国史跡に指定された。
100軒以上の墓や貯蔵穴も発見されており、その中からクジラ、オットセイなどの海獣類をはじめマグロ、サケなど魚類、さらにマガキ類を主体とする貝類の出土量も多く、豊富な海資源に恵まれていたことが判明している。
さらに、ヤマブドウ、ウルシなどとともにクリの炭化物も発見されていることから、裏山の森林で三内丸山遺跡同様の「クリ栽培」が行われていたことが推測されている。
これは、約2000個以上発見された石皿や磨りつぶすため使用した磨石、青竜刀形石器などの出土からも傍証できる。落葉広葉樹林を中心とする森林資源が豊富だったことがわかる。
一方膨大な土器、石器類も出土しており、現地では無料で入場できる「管理棟」が建設されている。その中では発掘中のジオラマ等と一緒に展示されている。
発見された竪穴住居の中には、床を深さ2メートル40センチ以上も掘りこみ、大きな6本柱穴や石囲炉も検出されている大型例もあり、なぜそれ程深くしたのかが注目されている。
しかも、竪穴住居ごとに重なり合う例も多く発見されていることから、豊かな資源のもと、この地に長期間定住することを縄文人らが意図していたことがわかる。
住居跡とともに注目されたのが、盛土遺構と呼ばれる三内丸山遺跡で発見された例と同じ、大量の土器石器類遺物だ。これは、何らかの「祭祀場」として機能していたと思われる。
特に出土数が多いのはクジラの焼けた椎骨であり、「送り場」としての儀式が行われていたことがわかる。同様の「送り場遺構」は千葉県船橋市の取掛西貝塚でも発見されており、縄文人の精神文化に迫る遺構として注目されている。
このように大船遺跡は立地的にも豊富な海洋資源と森林資源に恵まれた、数千年間営まれた集落遺跡である。これらの資源を継続させるため、「祭祀行為」も頻繁に行われていたようである。
大船遺跡は近くにある「垣ノ島遺跡」とセットで見学もでき、さらに函館市縄文文化交流センターも近くにあり、より深く「北海道の縄文文化」を学ぶことが出来る。
遮光器土偶など縄文晩期を代表する亀ヶ岡文化が出土する
JR五能線木造駅では高さ17メートルの巨大な「しゃこちゃん」が有名であるが、そのモデルとなった「遮光器土偶」が明治20年(1887)に左脚を欠いた状態で出土した遺跡がある。つがる市の岩木川丘陵標高7〜18メートルに所在する。台地上には100基以上の土坑墓群があり、約3000〜2400年前の大規模墓地と推定され、周囲から土偶をはじめ多彩、装飾豊富な様々な器形の土器類や緑色珪質凝灰岩やヒスイ製玉類などの副葬品も多く出土している。ここから、祖先崇拝信仰が長年にわたり継承されていたことが推定できる。低湿地には、赤漆塗り土器や籃胎漆器が出土して注目された。同地のように低湿地は土壌が湿潤でアルカリ土となるため、有機質の木材や漆器がよく保存されていた。本遺跡出土の薄手土器類や籃胎漆器類の独特な芸術的精緻さから、その後の研究者により縄文晩期を代表する「亀ヶ岡文化」という呼称が広く使用されるようになった。
テントで生活していたのか?住居跡が見つからない遺跡
津軽半島外ヶ浜町、標高26メートルの河岸段丘上にある旧石器時代から縄文時代の遺跡である。昭和5年(1976)の発掘調査で土器片や石鏃が出土し注目された。平成10年(1998)の発掘調査では、土器片46点と石鏃2点が出土した。石鏃が発見されたことで、従来の縄文時代早期と思われていた弓矢出現期が数千年も古くなることになる。さらに、出土土器に付着していた炭化物放射性炭素年代測定法で分析した結果、紀元前13000年前という大変古い年代が示された。土器の文様は無文で、器形は深鉢と思われ重量感はあるものの壊れやすい土質であった。表面の付着物から煮炊きに使用されていたようである。住居は移動式の簡易なテント状だった。この年代測定の結果、最終氷期のまだ寒冷期に既に縄文土器が製作されていたことになり、現在世界最古クラスの土器となる。しかし、年代測定法についての正確性に対する疑義もある。
貝殻を使ったアクセサリー工場か?未完成の貝輪が出土
亀ヶ岡遺跡に近い青森県つがる市の標高10〜15メートルの丘陵上にあり、縄文時代に形成された古十三湖に面している縄文時代前期〜中期の遺跡である。後背部には森林資源豊富な落葉広葉樹林が広がっていた。戦前から遺跡の存在は知られており、昭和19年(1944)には史跡指定されている。
発見された遺構には、竪穴建物、墓、貝塚、捨て場、貯蔵穴などがあった。貝類の中心はヤマトシジミで、クジラ、イルカや大型哺乳動物製の骨角器も多数出土した。コイ、サバなどの魚骨、ガン、カモなどの鳥骨も発見されており、豊かな食料資源に恵まれていたことが分かる。特に注目されたのが、ベンケイガイ製貝輪の未成品が多数出土したことで、同遺跡で貝輪製作が盛んだったことがわかり、道内の各遺跡からも同品が出ている。
一方、土壙墓内から出産歴のある女性骨も発見されている。この遺跡は日本海側の貝塚遺跡として希少というだけでなく、その出土品から当時の芸術性の粋がよく分かる。
太陽に関連する祭祀があったことを思わせる遺跡
青森県弘前市の岩木山(標高1625メートル)東麓標高140メートルの大森川と大石川に挟まれた丘陵上にある縄文時代晩期の環状列石や竪穴式住居などが発見された遺跡である。昭和34年〜昭和36年(1959〜61)に発掘調査が実施された。環状列石は長径49メートル、短径39メートルの楕円形に77個以上の組石群で配され、全体では約1000個以上の輝石安山岩主体の川原石を使用している。中心部での墓坑は未発見だが、周囲には同時期の捨て場、石組炉、土器埋設遺構なども発見されている。
また、これまでに多数の土器や石器などと一緒に、祭祀用と思われる「円盤状石製品」が約250点以上も出土した。素材は組石と同じ、輝石安山岩製が多く、近くの河川から運ばれたものと思われる。同遺跡は、冬至に岩木山へ太陽が沈む位置にあることから、この日に何らかの祭祀があったと推測されている。
石が点在することから石神平と呼ばれていた環状石列
青森市の南側、青森空港に近い標高150メートルの台地上にある縄文時代後期の環状列石遺跡である。緩やかな斜面を削平して大がかりな土木工事後に造成した。環状列石は外周直径35メートル、内周直径29メートルの三重(一部四重)となるもので、大量の川原石を使用してまさに円形劇場のような壮観な形状を示している。全国的にも珍しい3〜6個の石を使い、細長い石を横に敷き、端に平たい石を積み上げる独特に組んだ「小牧野式組石」と呼称される組石方式で列石を構成していた。列石に隣接する墓域と思われる遺構から、多数の種々な遺物が出土し、狩猟文土器を中心とする大量な土器、400点を越える「三角形岩版」、クマなどの動物形土製品、板状土偶が発見されている。これらの遺物類は、祭祀儀礼的用途で使用されたと 思われる。このことから、従来環状列石は「墓域」と考えられていたが、この遺跡だけは「祭祀」場だった可能性が高いようである。
貝殻や動物の骨を加工した道具もたくさん見つかる
青森県七戸町の太平洋岸標高30メートルの段丘上に所在する縄文時代前期〜中期の貝塚である。後背部には落葉広葉樹林も広がっていた。35万uの広大な面積をもち、発掘調査で竪穴建物や貯蔵穴も多数検出されたことから、大規模集落だったことがわかる。貝塚は南北2ヶ所の斜面計15地点で発見され、上層にはヤマトシジミ主体の汽水性貝が、下層はハマグリ、ホタテが主体の海水性貝が出土した。これは、この時代の海進・海退状況が如実にわかる現象といえる。貝層中からは、スズキ、フグ、マダイなどの魚骨、ハクチョウ、カモなどの鳥骨、シカ、イノシシなどの獣骨も多数出土しており、釣釣り針や銛、ヤスなど漁猟具も発見されている。平成5年(1993)の調査でフラスコ状貯蔵穴から死後まもなく丁寧に埋葬されたメスの子犬が出土した。一方、出土遺物の中には、幾何学的彫刻が施された長さ11.4センチの鹿角飾り櫛はじめ猪牙や鹿角製の装身具が多数発見されている。
トチの実のアク抜きや漆を加工するなど高い技術を有す
青森県八戸市の南東部新井田川河岸段丘の標高10〜15メートルの位置にある一王子、堀田、中居の3遺跡で構成されている。大正〜昭和にかけて地元研究者と大山史前学研究所などで発掘調査され、その豊富な遺物量などが注目されていた。平成11〜15年(1999〜2003)に本格的発掘調査が実施された。晩期前葉の中居遺跡では住居跡、墓、配石遺構などが発見されている。低湿地のゴミ捨て場からは、精巧な土器や土偶、漆塗りの弓、櫛、腕輪、容器など多数出土している。河川でトチのアク抜き用の「水さらし場」も発見されており、クリ、クルミ、トチなど堅果類やシカ、イノシシの骨、スズキ、マグロなどの魚骨などこの時代の食料資源を推測させる遺物類も出土している。本遺跡出土の「赤漆塗り木製品」「籃胎漆器」「漆塗り飾り木製太刀」「赤漆塗り櫛」などはその高度な技術から重要文化財に指定されている品も多く、当時の「漆工芸」の粋を示している。
復元された超大型掘立柱建物がもたらした三内丸山ブーム
平成14年(2002)のサッカーワールドカップ開催国に日本が名乗りを挙げ、各地で収容条件に合致するサッカー場建設の気運が盛り上がった。青森県でも立候補するため、既存の県営野球場を移転して新たな県営サッカー場建設の計画をたてた。その移転先こそ江戸時代から知られていた縄文遺跡の三内丸山遺跡である。
そのため、平成4年から本格的な発掘調査が開始され、竪穴住居跡をはじめ大型掘立柱建物跡、墓と思われる土坑群、盛土遺構などさまざま多種の遺構と大量の遺物が予想通り出土した。
墓域は計画的に配置されて、道路脇には大人用墓、居住域北側には小児壺棺墓と明確に区別されていた。遺物量は段ボール箱で6万箱以上(現在では10万箱を超えている)となり、国内でも最多級遺跡となった。中でも、注目されたのが縄文のポシェットと呼ばれたイグサ科の植物で編んだ高さ15センチの巾着であった。
そして、この遺跡保存を決定的にしたのが、遺跡中央部で発見された直径約2メートル、深さ約2メートルの大柱穴が柱間隔4.2メートルで6穴出土したことによる。この柱穴には直径1メートルのクリ材が残っており、専門家の推測ではこのクリ材は高さ10メートル以上になる巨木だったと思われる。後日、これらのデータから超大型掘立柱建物の復元建造物案が複数提案され、その中から現在現地で復元されている案が採用されたのである。
以上の状況から、県は急遽当初の計画を中止し、調査体制も変更し万全体制での発掘へと進展した。遺跡の総面積は約38ヘクタールで現在まで調査が進んでいるのはわずか7へクタールほどである。このような動きが連日マスコミなどで報道されるや、遺跡が東北自動車道青森インターを降りてすぐという地理的至便さも加わって、連日全国から多くの見学者が訪れ、いわゆる「三内丸山ブーム」が惹起された。
その後の発掘調査で、1500年以上継続された縄文前期から中期の大集落で、最盛期には500人を越えるムラ人が生活し、クリなどは周辺で栽培されていたことも指摘されている。実は各種遺構の発掘調査で、大量の「クリ」の実が出土し、これらのDNAを分析した処、そのバンド分析がほぼ均等であることが判明した。つまり、自然界ならば植物のDNAバンドは不均等バラバラになるのが通常だが、均等になることはそこに「人為的」作用が加味されていたことを示している。
土で屋根を葺いた建物が発見された個性的な遺跡
岩手県一戸町の山間部にある縄文時代中期後半に約500年続いた7万7000u規模の集落で、中央広場に配石遺構と盛土遺構をもち、周辺に600棟以上の住居跡を配置していた。平成8〜9年(1996〜97)の発掘調査で、何回も火災などで住居が焼失した痕跡が発見されたため、当時の屋根・住居構造を解明できたのである。その1棟は、直径4メートルほどの楕円形住居で、クリ材を主体とする木材片が偏って検出され、一番焼けた中央部での木材出土は少なかった。以上の結果から従来、他の縄文遺跡で見られたようなカヤ、ワラ葺きの竪穴住居ではなく、最終的に地山の土を載せた土屋根構造だったことがわかった。雪の多い地域だけの特殊性なのか、それとも普遍的事例なのかという新知見も提起されている。一方、配石墓は近くの馬淵川の川原石を組んで、直径2〜4メートルの範囲内に配石しそれを1単位として、中央部に7〜8単位を構成していた。それぞれの地中から、墓坑が検出されている。
野中堂と万座と呼ばれる2つの環状列石からなる遺跡
十和田湖の南、秋田県鹿角市の標高180メートルの高台で、昭和6年(1931)、耕地整理中に偶然発見された2つの環状列石遺跡である。昭和26年以降、順次発掘調査が実施された。遺跡の推定面積は、約15ヘクタールである。2つの環状列石は直径42メートルの野中堂、直径48メートルの万座と呼称されている。100個以上の石を組み合わせて、環状中央にある「日時計状組石」と言われる20キログラム以上もある立石を中心に組石されている。発掘では環状列石を囲むように、掘立柱建物、貯蔵穴、土壙、捨て場などが同心円状に展開していることがわかった。また、環状列石部の円形状石下部より土器とともに甕棺や石鏃、朱塗り木製品などが発見され、さらに土壙内の土壌分析から「高等動物脂肪酸」が検出された。このことにより、この環状列石遺構は、つまり葬送儀礼と同時に自然資源豊穣祈願儀礼も催行されていたと思われる。
三脚石器やきのこ形製品などは儀式で使用か?
秋田県北部、北秋田市の標高40〜45メートルの河岸段丘上の大祭祀遺跡。新空港関係道路建設で平成7年(1995)に発掘され、縄文時代後期の環状列石3基が検出、その1基は長径30メートル、短径25メートルの卵形で1500個以上の川原石を並べていた。石の並べ方は、縦横に組み合わせるタイプ、花びらのように広げるタイプ、楕円形の穴に詰め込んだタイプなどいろいろであった。この傾向は、青森県小牧野遺跡でも確認されており、両者の関連性が注目されている。さらに35棟の6本柱建物跡も集中して発見されたが、柱穴は直径60〜80センチ規模のものもあり、その形状が秋田県大湯環状列石でも検出されているため、北東北地域の「環状列石」遺構のもつ意味に重要な示唆を与えている。遺物で注目されたのが、三脚石器、土偶、きのこ形土製品、渦巻文土製品など祭祀儀式に使用された特殊遺物群。後期の高さ約18センチの板状土偶も発見されている。