近年、縄文土器の研究において、時代変遷とは別に、地域別での検証が進んでいる。
北筒式(北海道 中〜北部)、円筒式(北海道南部・青森)、大木式(秋田・岩手)、加曽利E式(茨木・千葉)、馬高式(新潟)、曾利式(山梨・長野・静岡)、船元式(中国・近畿・四国)、阿高式(九州)など。
全国各地で見付かった縄文土器の種類をまとめる。
1万年以上も続いた縄文時代は、土器の形も人々の生活のニーズに合わせて、さまざまに変化した。
そうした土器の型式を編年して、縄文時代を6区分するのが一般的である。
6区分は、草創期(1万6000年前〜1万1500年前)、早期(1万1500年前〜7000年前)、前期(7000年前〜5500年前)、中期(5500年前〜4400年前)、後期(4400年前〜3200年前)、晩期(3200年前〜2400年前)に分けられる。
6つの区分の中でも中期は、気候が比較的安定していた時期であり、木の実などの植物が豊かであったとされる。
こうした環境を背景として縄文人の定住生活も進み、それにともなって、土器の形も多様化をみせ、地域ごとに特色を持ったものが生み出されるようになり、土器文化圏を形成するようになった。
縄文時代の中期に展開された土器文化圏のうち、代表的なものを北からみていく。
まず、北海道の道東を中心として道北に広まった北筒式土器があげられる。
これは、北海道式円筒土器のことであり、細岡式や羅臼式などに分類される。
北海道の道南西部から東北地方にかけて多く分布をみることができるのが円筒上層式土器である。
円筒状の作りで単純化された形状が特徴である。深鉢形土器や浅鉢形土器に作られ、口縁部に小突起がみられる。
また、口縁部には、沈線や刺突による文様がみられ、綾絡文が施されていたりもする。
仙台湾の付近を中心に東北の南部に分布し、次第に北部にも分布を広げたのが大木式土器である。
形は少しずんぐりとして、激しい凹凸がみられる。丸い胴体に足をつけた球胴形とか金魚鉢形とかといわれるものもある。
新潟県から福島県西部にかけて分布しているのが馬高式土器である。
代表的な形として火炎土器があげられる。馬高式土器は火炎土器の基準として重要な位置を占めている。火炎土器は派手な装飾性をもち、特に口縁部は炎が燃えあがる様子を表現していて豊かな芸術性が指摘されている。その特異な形状から一般の土器とは異なり、祭祀用に用いられたともいわれている。
関東地方の東部を中心に分布をみせるのが阿玉台式土器と加曽利E式土器である。
阿玉台式土器は、はじめ勝坂式土器と関東地方を2分していたが、次第に勝坂式土器をしのぐようになり、関東地方の東部に分布するようになった。阿玉台式土器は、素地に雲母を含むため、土器の表面がきらきらとした輝きをみせている。
加曽利E式土器は、関東地方全域に分布している。その特徴は、胴部がくびれており、口縁部へ向かって大きく広がりをみせている。口縁部自体は丸くふくらみ、深鉢形土器の形状をもち、文様は簡略化されている。
関東地方の西部から山梨県・長野県にかけて広範囲に分布がみられるのが、勝坂式土器と曽利式土器である。
勝坂式土器は、器壁が厚く、把手も厚く豪壮で雄大な造形をみせており、立体的な装飾を特徴としている。把手には人物や動物の顔面をあしらっており、なかには蛇をかたどったものもある。
曽利式土器は、主に山梨県を中心に分布していて、底部は小さくそこから少し膨らんでくびれながら開いていくという特徴をもっている。深鉢形土器の形が多くみられる。
西日本に広まった形式としては、船元式土器・里木式土器がある。
船元式土器は瀬戸内海沿岸の中部に分布し、器面に荒く堅い繊維による縄文・撚糸文がみられる。
里木式土器は、中国地方・四国地方に分布し、平底の深鉢形土器の口縁部を外ふくらみにしている。器壁は薄く、沈線文など多彩な装飾がみられる。
他に兵庫・和歌山・奈良・滋賀の各県や京都府・大阪府などの近畿に分布がみられる北白川C式土器もある。
最後に九州の西半分についてみると、出土例があまり多いとはいえないが、太形回線文系土器のはじまりとされる並木式土器があり、そのあと広まった阿高式土器もある。ふたつとも素地に柔らかい滑石が混じっているのが特徴である。
国内では大平山元遺跡の無文土器が約1万6500年前に用いられていた可能性が指摘されている。 海外に目を向けると中国では約2万年前と推定される土器片が出土し、ロシアでは約1万5000年前、ドイツでは約9000年前と考えられる土器が発見されている。