縄文時代の地域間交易

縄文時代の地域間での交易

目次

縄文人は日本各地を往来していた

黒曜石やヒスイを求めて全国に交易網が存在

縄文時代の日本では、遠くなはれた地域間での交易(貿易)が行われていた。黒曜石・ヒスイ・サヌカイト・アスファルトなどは、産地から遠く離れた場所でも出土しており、産地から日本各地の人達に特産物が届けられていた。丸木舟による航海も始まっていた。

基本的には定住していた縄文人だが…

縄文時代の人びとは、ふつう水辺に近い台地上に竪穴住居を造り生活した。
1戸の竪穴住居に5人前後が住み、5戸〜10戸くらいでひとつの集落を形成していたとされる。
縄文人の生活圏は集落の中もしくはその周辺であり、限られた空間だったと考えられる。
ただし、もちろん例外はあった。縄文人の行動範囲はときとしてもっと広かったようだ。

黒曜石〜産地から広域へ運ばれた

縄文人にとって不可欠だった黒曜石

縄文人は、黒曜石やヒスイを交易品として驚くほど広範囲に他の地域と交流していたことがわかってきている。
黒曜石は割れ口が鋭利なことから石器の材料として用いられ、縄文人にとって不可欠のものである。

黒曜石は、限られた産地でしか採れない

現在、日本列島の各地から黒曜石の石器が出土しているが、黒曜石は列島のどこからでも産出されるわけではない。
関東の周辺では長野県の和田峠や神奈川県の箱根畑宿が産地としてよく知られているが、他には北海道の十勝岳と白滝、伊豆諸島の神津島、島根県の隠岐、大分県の姫島、佐賀県の腰岳、熊本県の阿蘇山などがあげられる。
つまり、黒曜石は特定の産地限定の石材なのである。

黒曜石の交易が遠隔地間で行われていた

それにもかかわらず、日本列島の各地から黒曜石の石器がみつかっているということは、産地と石器出土地との間に交流があり、黒曜石が動いていたことが判る。
ただ、産地の縄文人が石器出土地へ黒曜石をもちこんだのか、外部の縄文人が産地に採りに行ったのか、あるいは他の方法であるのかについては、明らかにすることは難しい。

サハリンや朝鮮半島にまで黒曜石が届けられたとも

しかし、北海道の幸連5遺跡からみつかった石鏃が和田峠の黒曜石であることや、青森県の三内丸山遺跡からは北海道産の黒曜石が出ていることなどを考えれば、縄文人が遠隔地間の交易を行っていたのは間違いない。
さらに、日本列島内の黒曜石の分布は、日本海を渡り、サハリンや朝鮮半島にまでおよんでいるといわれている。

ヒスイ交易〜新潟から各地へ

呪物として身に付けられた勾玉

黒曜石とともにヒスイを使った遠隔地間の交易も行われていた。
ヒスイは、半透明で緑色であることから、神秘性を感じた縄文人は装飾品として身につけるとともに、その呪術的な力を信じ呪物としても用いられたとみられる。
新潟県の姫川流域が特産地であり、遅くても紀元前5000年頃、すなわち縄文時代の中期にはヒスイを使った勾玉が作られていたとされる。
長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの勾玉やそれを作った工房跡もみつかっている。
ヒスイは、勾玉の他に大珠や丸玉などの材料にも用いられており、それらの分布は東日本を中心に列島規模でみられることから、遠隔地間の交易が想定されている。

サヌカイト交易〜近畿や四国から

石器の材料として用いられたサヌカイト

黒曜石やヒスイの他にも遠隔地間の交易に用いられたものがある。
たとえば、讃岐石ともよばれるサヌカイトは、大阪府と奈良県の境の二上山や香川県の白峰山で多く産出される。
石器の材料として用いられたサヌカイトは、関西や瀬戸内海沿岸をはじめとして北部九州でも石器に加まる工されたものが発見されており、丸木舟などによる遠隔地間の交易が行われていた。

アスファルト交易〜北海道など

石鏃の接着や土器の補修に使われたアスファルト

少し変わったものでは、アスファルトがあげられる。
熱して石鏃などの接着や破損した土器などの補修に使用された。
縄文時代の後期から晩期にかけて北海道をはじめとして、秋田・山形・新潟などで産出された。
アスファルトが付いた遺物は、関東などでもみつかっており、アスファルトも遠隔地間での交易が行われていた。

琥珀〜装飾品として加工

他には、琥珀も考えられている。琥珀は、装飾品として加工されており、北海道の柏台遺跡からみつかった琥珀製の小玉は約2万年前のものとされる。琥珀の産地としては、岩手県の久慈などがあげられるが、縄文時代には各地で装飾品に加工されて人々に用いられたと思われる。


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