荘園には不輸不入の権があったが、これによって土地の自由な開拓が可能になり、日本の農業技術は発展し生産性が向上した。
荘園で農業が発達し、荘園制が終焉を迎えるまでの流れをまとめる。
貴族や寺院の私有地である荘園には、地方政府に納める税が免除される「不輸」と、国衙の検田使や収納使などの立ち入りを拒否する「不人」の特権が与えられるようになった。
そのため、中世の領域型荘園は「独立した小世界」になっていた。
これは弥生時代の環濠集落のような“クニ”に似ており、内部では独自のルールが敷かれ、経済的に発展して力を付けていった。
荘園における不入の権の権限は警察権にまで及び、守護の権限である殺人と謀反を除けば、犯人を逮捕して処罰する検断権を荘官が持つようになった。
例えば、ある荘園で罪を犯した者が別の荘園に逃げた場合には、逃亡先の荘官から了解を得る必要があったのだ。
もし、ある荘園の農民が年貢を払えずに別の荘園に逃げ込んだら、逃亡先の荘官の許可がないと追及できなかった。
逃げた農民が逃亡先で再び農業を始めるのは自由で、何回でもやり直せたのが、中世荘園の特徴であった。
荘園内では自由に農業経営が行えたが、領主に対して年貢や公事物を納める必要はあった。
鎌倉時代末期ごろには年貢を貨幣で納入する代銭納が一般化した為、農業以外の商業なども発展していった。
不入の権によって荘官の荘園経営の自由度が増し、その土地に最適な生産活動が行われるようになった。
その結果、中世の荘園では農業の集約化が進んでいった。
代表的な土地利用が、同じ耕地で1年間に2種類の作物を栽培する二毛作である。
畿内や西日本では、水田の裏作として麦を栽培する二毛作が行われた。
鎌倉幕府は裏作の麦に年貢をかけることを禁止したので、二毛作は広く普及した。
また、夏に大豆を作って秋冬に麦を作ったり、夏に荏胡麻(燈明に用いる油が果実から採れた)、冬に紅花を作る畠地の二毛作もあった。
15世紀には稲・蕎麦・麦の三毛作も行われ、朝鮮半島から来日した使節・宋希mが驚いたという。(『老松堂日本行録』)
二毛作は多くの肥料が必要になる。
山野から刈り取った草木や、それを焼いた灰を肥料として田畠に敷き込む刈敷が用いられた。
草木の利用が盛んになったのは、領域型荘園が成立し、荘民による山野の占有権が明確になったからと考えられる。
水田二毛作には冬に水を落とせる乾田化が必要だった。
中世に入ると農民が牛や馬を飼うのが一般化し、その糞尿を利用した厩肥も重要な肥料になった。
牛や馬に鋤を引かせて田の鋤返しや代掻きを行う牛馬耕も広まり、鉄製の農具と共に、生産力の増大に貢献した。
平安時代までは、牛馬や鉄製農具(唐鋤・馬鍬・マサカリなど)は領主が所有し、農民に貸し出すのが一般的だった。
しかし、中世には農民たちが各々で所有するようになった。
鎌倉時代の荘園では、新田開発が盛んに行われた。
この時代を通じて 田地が4〜6割増えたとみられる。
鎌倉幕府も「地頭が開発した新田については地頭のものになる」という法令を出すなどして、新田開発を後押しした。
田地には水が必要不可欠だったので、新田開発に際しては用水路の掘削や整備が積極的に行われた。
水田にできない土地は畠地として利用され、山地では森を焼いた跡を畑とし利用する焼畑農業が行われた。
こうした荘園における田地や畠地の増加で、日本の農業生産力は著しく向上した。
鎌倉時代後期になると山野の境界や用水の利用をめぐり、荘園間で争いが起きるようになる。
中世の領域型荘園は独立性を有していたので、荘園の域を超えた大規模開発は難しかった。
荘園内での耕地拡大は限界に達し、これ以降は土地利用の転換や最適化が進められた。
谷奥に池を造って谷間に田地を開く谷戸田、河道を変えた川の河原に田地を開いた河原田、湿地を排水した洪田、高地を水田にするために土地を掘り下げて残土を畠にする島畑などが開かれるようになり、さまざまな方法で農業生産力を高めていった。
荘園制で日本全土の土地の開拓が進んで行き、やがてその土地は戦国大名によって統治される時代が到来する。
こうして荘園制は役目を終えた。