古墳の被葬者は特定困難

古墳の被葬者は殆ど特定できない

名前も業績も没年も、ほぼ遺されてない

そもそも、開かれる事を前提に造られていない

埋葬された人物、すなわち被葬者が特定された古墳はほとんどない。
現代の墓にはそれが誰の墓かがちゃんと書かれた墓石もあるが、古墳にはそういったものがない。
亡くなった人の名前や業績、没年などを記した墓誌を残す習慣もなく、誰が埋葬されたかを知る手がかりがほとんどないのだ。

古事記の編者・太安万侶は珍しい例

墓から墓誌が出土、奇跡的に被葬者が特定

なかには、『古事記』の編者である太安万侶のように、墓誌が出土した墓もある。
しかし、そうした墓の多くは8世紀のもので、しかも十数例しか存在しない。

磐井、北部九州の豪族の墓

磐井の乱の【磐井】の古墳は特定できた

福岡県八女市の岩戸山古墳

そうした中で、墓の主がほぼ推測できる古墳の1つが、福岡県八女市の岩戸山古墳である。この墓は、6世紀初めに北部九州を支配していた豪族・筑紫君磐井(筑紫国造磐井)だったと考えられている。
>> 磐井氏

『筑紫国風土記』逸文の記述が、実際の墓と一致した

この墓が磐井のものと推定できるのは、鎌倉時代末に成立した『釈日本紀』の逸文に引用された『筑紫国風土記』に、磐井が葬られた墓の位置や規模、特色などが書かれているからだ。
逸文には、磐井の墓が上妻郡の役所の南2里の場所にあったと記されているが、その記述が岩戸山古墳とほぼ一致している。

当時の畿内大王陵に匹敵する規模だった磐井の墓

さらに逸文には、磐井が生前に墓を築いたことが記されている。
岩戸山古墳は全長135メートルの前方後円墳で、北部九州では最大の規模を誇る。
当時の畿内大王陵にも匹敵する規模だったことから、磐井が相当な実力者だったことがうかがえる。

築造年代も『日本書紀』の年代と一致

築造年代は6世紀前半とされるが、それも『日本書紀』の年代と一致する。

非常に正確だった『筑後国風土記』逸文

さらに、岩戸山古墳では石人・石馬を含む多くの石製品が出土しているが、これも『筑後国風土記』逸文の記述にある。
石製品の分布状況から推測すると、磐井の勢力は北は玄界灘から南は有明海に及ぶ広大な領域だったとみられる。

『日本書紀』の記述はあまり正確ではない

『日本書紀』によると、磐井は対・朝鮮交渉をめぐって朝廷と対立し、近江毛野軍の進軍を阻んだとされる。
しかし、朝廷から物部麁鹿火軍が派遣され、激しい交戦の末に敗死したという。
ただし、これらの交戦の話は『古事記』には記述されておらず、磐井は反乱などは起こさなかったのでは?という指摘もある。基本的に、『日本書紀』の記述は当てには出来ないのだ。

実は怪しい天皇陵の被葬者特定

発掘調査や科学的根拠はほぼなし

宮内庁はいくつかの古墳を天皇陵として治定しているが、これは幕末から明治にかけて、平安時代に編纂された『延喜式』などを参考にして決めたものである。 そのため、現在に至るまで科学的な根拠は乏しく、実際に天皇が埋葬されたかどうかは定かでない。

子(履中)の墓が、親(仁徳)の墓よりも古い、という…

例えば、全長525メートルの大仙古墳(大阪府堺市)は仁徳天皇陵に治定され、5世紀前半から中頃の築造とされる。
しかし、子の履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市)の築造年代は5世紀初頭と考えられている。
考古学的には大きな矛盾が生じているが、宮内庁は「あくまで祭祀の対象であり、一般の墓所や古墳とは意味合いが異なる」として、陵墓の治定見直しを行わない方針である。

被葬者の特定は難しいが【天皇】ではある

天皇陵としか考えられない大きな陵墓群

宮内庁が管理する古墳は立ち入りや調査が厳しく制限されているので、古墳の被葬者が本当に天皇かどうかを知るのは難しい。
とはいえ、天皇陵に治定された古墳は、いずれも当代随一の大きさを誇る。
そのため、天皇が被葬者であると考えるのが妥当である。

考古学者も同意する陵墓もある

継体・天武・持統天皇らの陵墓

一方で、天武・持統天皇陵の野口王墓(奈良県明日香村)や天智天皇陵の御廟野古墳(京都府京都市)のように、多くの考古学者が「宮内庁の指定どおりで間違いない」とする陵墓もある。 また、大阪府高槻市の今城塚古墳は宮内庁の治定は受けていないが、継体天皇の陵である可能性が高いといわれる。

継体天皇の今城塚古墳は【立ち入り可能】

発掘調査や一般人の立ち入りが可能な天皇陵

宮内庁は、今城塚古墳から約1.3キロ離れた太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵に治定し、立ち入りを制限している。
逆に今城塚古墳には立ち入りの制限がないので「発掘調査や一般人の立ち入りが可能な天皇陵」ということになる。
高槻市は古墳一帯を史跡公園として整備し、平成23年(2011)には今城塚古代歴史館を開館した。

今城塚古墳では多くの出土品が

今城塚古墳の発掘調査では形象埴輪や埴輪祭祀区が出土し、出土点数や祭祀区の規模は日本最大級を誇る。
他の天皇陵も、発掘調査をすれば古代史の常識を塗り替える新発見が出てくるかもしれない。


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