なぜ出雲大社は海の近くにあるのか。島根半島はかつて半島ではなく島だった。当時の出雲は現在より内陸部まで海が入り込んだ地形で、出雲は日本海ルートにおける最大・最良の港でもあった。そのランドマークとなったのが出雲大社だったと考えられている。
出雲大社の起源は神話の時代にまで遡るさかのぼるが、あくまで神話とされてきた。というのも出雲地方では長らく大きな考古学的発見が少なかったからだ。
ところが昭和58年(1984)に島根県出雲市の荒神谷遺跡から358本もの銅剣が出土した。その後、16本の銅矛、6個の銅鐸も発見された。
さらに荒神谷遺跡から3キロメートルほどしか離れていない加茂岩倉遺跡からは、平成8年(1996)に全国最多の3個もの銅鐸が出土した。
これにより古代出雲は、青銅器文化の一大中心地であり、神話に描かれたように古代日本における最大級の地方勢力だったことが明らかになったのである。
実は、島根半島はかつて半島ではなく、島だったことが地理学・地質学でわかっている。
当時の出雲地域は現在よりずっと内陸部まで海が入り込んだ地形で、西は8世紀の『出雲国風土記』に記された神門水海(現在の神西湖を含む一帯)から、東は入海(現在の中海と宍道湖をつないだ巨大な内海)に至る日本海域最大の潟湖(ラグーン)を擁していた。
そして、造船技術の未発達な時代、航海には波穏やかで天然の良港となるラグーンの存在が必須だった。
古代の日本海は、対馬海流やリマン海流の流れを利用して、鉄、青銅器、玉製品などを持った人々が行き来する巨大交易圏を形成していた。
そして、大陸から九州北部を経由して海岸沿いを北上する船が最初にたどり着く天然の良港が、出雲の神門水海だった。
朝鮮半島南部から出雲までは直線距離にして300キロメートル程度であり、古代には北九州を経由せずに朝鮮と出雲を直接結んだ航海ルートも盛んだったと考えられている。
旧暦10月に出雲大社に集まる神々は、出雲大社に隣接する稲佐の浜から来訪する。
このことは港湾都市・出雲の性質がよくあらわされている。
出雲は日本海ルートにおける最大・最良の港であり、そのランドマーク(目印となる建造物や特徴物)となったのが出雲大社だったとも考えられる。
この出雲の命脈ともいえるラグーンは、やがて河川からの土砂の流入によって埋まり、湖となってしまった。
潟湖が埋まった時期については諸説あるが、ヤマト王権が成立する前の3世紀頃までは東西が海で結ばれた港湾都市としての機能を有していたと考えられる。