平正盛(たいらのまさもり)(生没:?〜1121(保安2年))は伊勢平氏庶流出身の平安時代後期の武士。平清盛の祖父。摂関政治から院政への変化の波に上手く乗って、白河院の頼みの武力として実績を重ね、院の近臣への仲間入りを果たす。追討使として西国へ下る機会も多く、平氏全盛の世の下地を築いた。
京の政界では特に注目されることもない、後の平家と比べれば弱小の在京武士だった平正盛。運を味方につけ、つかんだチャンスを確実にモノにする武力と処世術を持っていた。当時は、平氏はまだ庶流の家柄だったが、都で立身出世を目指すという賭けにでて大躍進を果たした。
都の情勢を知ってか知らずか、絶妙のタイミングで白河院への接触に成功した正盛。
源氏の出世頭が清和天皇の血を引く河内源氏であったのに対し、二大武士団のもう一方の雄である平氏の出世頭は、平清盛へとつながる桓武天皇のゆかりの伊勢平氏であった。
伊勢・伊賀を本拠地とした者たちで、本来、平清盛の祖父・正盛の家系は庶流の1つでしかなかった。しかし、正盛は政治の中枢に大きな変化が生じたのを知ってか知らずか、都に出て、白河院に接近する道を選ぶ。
期せずして、正盛が都へ出た時期は白河院が武の人材を急募していた時期と一致していた。
都の政局は藤原北家による摂関政治から、譲位した前天皇(上皇・法皇)による院政へと移行。天皇の外戚による干渉は極力排除され、最年長の院が「治天の君」として政務の実権を握り、最高権力を行使した。
都の治安維持を担う検非違使も院の指揮下となり、それとは別に院の御所の警護を担う「北面の武士」も新設されていたのだ。
「腕っ節が強くて忠誠心の篤い武士が欲しい」。これは、専制体制を確立させた白河院が晩年に発した言葉だ。院は意の如くならないものが3つあるとして、賀茂川の氾濫、双六の賽の目、山法師を挙げている。
山法師とは、比叡山延暦寺や園城寺、奈良の興福寺などが擁する僧兵を指していた。
白河院のやり方に不満があれば強訴に及び、僧兵同士で武闘を展開することもしばしば。白河院はそのたびに検非違使を派遣するが、俗人が僧兵を殺傷することもはばかられた。そのため、僧兵の鎮圧にはただ腕力があるだけでなく、慎重な配慮も備えた武士が必要だったわけだ。
一連の功績を認められ、寛治8年(1094)頃、正盛は隠岐守に任じられる。また、白河院ご寵愛の第一皇女が亡くなった際には、伊賀国に有していた2ヵ村の所領を彼女の菩提所に寄進したことが白河院から高く評価された。
3年後には検非違使から北面の武士への栄転を果たす。院の近臣として認められたのである。
正盛の攻めの姿勢はまだまだこれに終わらず、白河院が寵愛する祇園女御、院の近臣の先輩である藤原為房、藤原顕季らと結んで勢力を伸ばし、若狭守、因幡守と、国の格は転任ごとに上がっていった。
国の格が上がれば実入りも増え、威信も上がる。
西国で起きた源義親の乱を平定した功で但馬守に任じられた天仁元年(1108)正月時点で、かつて伊勢平氏の一庶流に属した正盛は、新たな嫡流として一族全体から認められるまでになっていた。
追討使に抜擢された徴兵の権限を得て、驚くほどの短時日で任務を果たしたわけは、凱旋した正盛に従う兵の多くが西海(九州)、南海(紀伊と四国)の名立たる武士であったからだという。
平氏による西国の武士の組織はこの時に始まるのである。
その後も伊予での海賊討伐、九州肥前(佐賀県、長崎県)で起きた反乱の平定でも功績を重ね、丹後国・備前国の受領(諸国の事実上の長官)を歴任。
経済的な基盤を固めるとともに、西国武士との絆も深めていった。