紫式部日記

『紫式部日記』

平安朝の人々の心を伝えた古記録

寛弘5年(1008年)〜7年(1010年)までを記録

『紫式部日記』は、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部によって記された日記とされる。紫式部のものの見方や考え方などに迫ることのできる第一級の史料。寛弘5年(1008年)から寛弘7年(1010年)までを記録している。その構成や制作意図などをまとめる。

『紫式部日記』は「日記」ではない?

本作品は『紫式部日記』という名だが、『小右記』や『御堂関白記』などのように身のまわりで起こった出来事を日ごとに綴る、いわゆる「日記」とは少々性格が異なっている。

宮廷行事の記録に近く、手紙のような気配も

日付が記されている部分と記されていない部分があり、日付入りの記述内容も、個人の日記というより宮廷行事の記録に近い。また、日付がない部分は、まるで随筆か、誰かに宛てた手紙のように見える。

その形式から、全体を

  1. 前半日記体部分
  2. 消息文部分
  3. 年次不明日記体部分
  4. 後半日記体部分

の四つに分けるのが一般的だ。

性格の異なる記述、内容で構成

@前半日記体部分
@前半日記体部分は、寛弘5(1008)年秋から翌年正月三日までの記事で、彰子の敦成親王出産とその後の行事、宴の様子などが中心に綴られている。元々は、文才のある紫式部が公式の記録係に任命されて記したものとする説が強い。ただし、官僚などが記す無味乾燥な行事の記録ではなく、その場にいる人々の様子や会話などを女房目線で生き生きととらえているところに価値がある。
A消息文部分
A消息文部分というのは、手紙のような文体で、個々の女房たちの容姿や人となり、清少納言ら才女たちの批評、自己反省や処世術のようなものまで語られている。少々自慢げな幼い頃の漢学の才の話やあからさまな才女に対する批判などが綴られているため、この部分は元々娘の賢子などごく内輪向けに書かれたものだったのではないかといわれている。
B年次不明日記体部分
B年次不明日記体部分には、土御門邸の御堂での法要とその後の舟遊びや藤原道長が紫式部のもとを訪問したエピソードなどが綴られている。年次の記載はないが、前半部の少し前に当たる寛弘5(1008)年の5〜6月頃の出来事とされる。
C後半日記体部分
C後半日記体部分は寛弘7(1010)年正月の記事で、彰子のふたり目の皇子・敦良親王の誕生五十日の祝いを中心とした正月行事が記されている。

出自の違う文面が一つにまとめられた?

このような異質な内容が入り混じった『紫式部日記』の成り立ちには諸説あるのだが、元々は違った制作意図で綴られた内容が、紆余曲折を経てひとつの作品としてまとめられたものであることは間違いないだろう。和歌とは違った意味で、紫式部の心情などがうかがえる好史料である。


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