平家滅亡後

平家滅亡後も生きながらえた人達

滅んだわけではない平家の血筋

平家を裏切り源氏についた者も

平家一門は壇ノ浦で全滅したわけでなく、落人として地下に潜伏した人びと以外にも、生き延びた者がいた。彼らの多くは源氏の時代を肩身狭く生き抜いたが、ときには平家を裏切り源氏側で堂々と生きた人もいた。

平頼盛(たいらのよりもり)

平家を裏切り源氏につき、鎌倉で好待遇を満喫

生没:長承2年(1133年)〜文治2年6月2日(1186年6月20日)

平頼盛は池禅尼(いけのぜんに:平清盛の継母)の子で平清盛の異母弟に当たる。正室の大納言局が八条院(鳥羽院の皇女)の女房であったことから、朝廷でも隠然たる勢力を有していた。
平氏一門の巻き返しはないと見限り、都落ちにも同行しなかった。木曾義仲による反対勢力への粛清が激しくなると、迷わず鎌倉へ下向。
頼朝の助命に母が関わり、北条時政の後室とも縁続きで、悪い扱いはされないと踏んだからだった。 鎌倉で厚遇された頼盛は持てる人脈を駆使して頼朝を助け、屋島の戦いののち、京都へ帰還。壇ノ浦の戦いからほどなく、東大寺で出家した。

平時忠(たいらのときただ)

驕る平家の筆頭格、細工に失敗し失脚配流に

生没:大治5年(1130年)?〜文治5年2月24日(1189年3月12日)

平時忠(たいらのときただ)は清盛の継室の弟。妹の滋子は後白河院から寵愛され、高倉天皇を産んだ。「平家にあらずんば人にあらず」と放言したことで知られる。壇ノ浦では入水を試みるが、泳ぎが達者だったために死に切れず、捕らわれの身に。娘を嫁として差し出すなど、源義経への接近を試みるが、義経と頼朝の関係悪化ですべてが徒労に終わった。
能登国へ流され、文治5年(1189年)2月24日、そこで生涯を終えた。

建礼門院(平徳子)

一門に殉じること叶わずひたすら菩提を弔うのみ

生没:久寿2年(1155年)〜建保元年12月13日(1214年1月25日)(異説あり)

建礼門院(けんれいもんいん)は清盛の次女で、本名は徳子。平宗盛・知盛・重衡は同母兄弟。高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産む。壇ノ浦で入水を試みるが、長い髪の毛が源氏の兵の差し出した熊手に引っかかり、救出されたという。国母であるため連座は免れ、京都へ護送されたのち、祇園の長楽寺で落飾(らくしょく:世俗から離れ髪を剃りおとし仏門に入ること)。真如覚と号し、その後は寂光院に引きこもり、安徳天皇と平氏一門の菩提を弔いながら終生を過ごした。
国母という立場上、殺される心配はなかったが、清盛の娘にして国母という縛りからは、一生逃れることはできなかった。

寂光院で暮らす建礼門院を描いたとされる明治期の木版画

寂光院で暮らす建礼門院を描いたとされる明治期の木版画。

出典・参考資料(文献)

  • 『弱者の日本史』宝島社 監修:小和田哲男

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