沖縄は戦後、4半世紀もの間、アメリカの占領化にあった。
冷戦中であった当時のアメリカは、東アジア反共包囲網の重要拠点を求めていたのだ。
そこで、地理的な条件を満たしていた沖縄は各地が基地化され、住民は抑圧を免れなかった。
次第に、住民による日本への復帰運動が高まっていき、1972年、沖縄が27年ぶりに米軍の施政権下から解放、日本復帰が実現した。
>> 戦後の沖縄解放年表
太平洋戦争中、日本で唯一戦場となった沖縄は、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後も、無期限にアメリカの施政権下に置かれていた。
アメリカ占領化における沖縄は「太平洋の要石(キーストーン)」とも呼ばれていた。
これは、四方を海に囲まれ、中国大陸と太平洋の間を走る防波堤の役目を果たす沖縄の特性から、アメリカの東アジア戦略上、極めて重要な拠点と考えられている為である。
戦後の沖縄では、基地拡張のための強制立ち退きが行われるなど、琉球列島アメリカ民政府の軍事優先政策によって沖縄住民の人権は著しく抑圧されていた。
さらに、民政府が借地料の支払いではなく、実質的な土地買い上げ策である「一括払い方式」の方針を発表し、アメリカ政府がそれを追認した。
これを受け、沖縄本島では、56年に「島ぐるみ土地闘争」と呼ばれる全島的な反対運動が起きた。
この頃から、多発する米兵犯罪や基地公害への抗議運動が各地で起こり、60年にはこれらの運動を結集した沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成される。
以後、復帰協は本土復帰要求を中心に、反戦反基地運動や人権擁護運動などを展開していく。
これらの運動が高揚するにつれ、円滑な基地運用の妨げになる事を危惧したアメリカ政府も、62年には将来における沖縄返還方針を打ち出していた。
しかし、ベトナム戦争の激化にともない、沖縄米軍基地の戦略的な重要性が高まった為、早期の返還は棚上げされてしまう。
一方、日本本土でも、佐藤栄作首相が65年の訪米で沖縄返還を打診。
さらに、同年8月には沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後は終わっていない」と述べて沖縄返還が重要な課題である事を示した。
以後、日本政府はアメリカと粘り強い交渉を続け、69年の佐藤・ニクソン会談で、72年までの沖縄返還という約束を取り付ける。
こうして72年5月15日には、「核抜き、本土並み」、すなわち沖縄米軍基地からの核兵器撤去と、本土の米軍基地と同じ法的制約下に置くという原則に従った沖縄返還が実現した。
ただし、この頃までに、復帰協を中心とした復帰運動は「日米安保条約破棄」や「米軍基地反対」を掲げるようになっていた。
島内の米軍基地を存続させたままの沖縄返還を進める日米両政府の方針と対立するようになっていた。
しかし、復帰5年後の77年5月15日に復帰協は解散している。
西暦 | 出来事 |
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1945年 | 琉球アメリカ軍政府設置 |
1946年 | マッカーサー、日本と南西諸島の分離統治を宣言 |
1950年 | 朝鮮戦争勃発
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1951年 |
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1952年 |
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1953年 | 民政府が土地収用令を発布。土地の接収が始まる。 |
1954年 | 民政府、地代の一括払い方針を発表 |
1956年 |
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1960年 | 沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)結成 |
1962年 |
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1965年 |
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1968年 |
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1969年 |
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1970年 |
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1971年 |
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1972年 |
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