自民党政権

自民党政権の始まり

戦後10年目に自民党が結党

自由党と民主党が合流し自民党に

自民党が結党されたのは戦後10年目の年であり、自由党と民主党の保守合同によって自民党が誕生した。
自民党政権の始まりを簡潔に見てみる。

戦前に一旦、全政党が解党する

大政翼賛会

戦前、新体制運動により全政党は大政翼賛会に吸収された。
1942年(昭和17年)の総選挙は「翼賛選挙」といわれ、大政翼賛会につながる翼賛政治体制協議会が定員いっぱいの466名の候補者を出し、政府もそれを後押しした。
そして選挙の結果、翼賛政治体制協議会から381名が当選、政府の推薦によらない候補が85名当選した。

結局、まとまれなかった戦前の議会

議会が召集されると、両者は合体し翼賛政治会がつくられるのだが、先に述べた事情から、翼賛政治会には主流派と非主流派とがいた。
1945年(昭和20年)3月に主流派は大日本政治会を作ったが、ほかに護国同志会と翼壮議員同志会があり、無所属議員も存在した。
しかし、これら3つの党派も敗戦後に間もなく解散した。

戦後初の総選挙

戦後初の総選挙は1946年(昭和21年)4月に行われた。(第22回衆議院議員総選挙)
前内閣の幣原内閣が衆議院解散したのが1945年12月18日であった為、その年の暮れは新政党が相次いで結党された。
革新系は日本社会党・日本共産党、保守系では日本自由党・日本進歩党・日本協同党が誕生した。

55年体制の成立

1955年(昭和30年)の時点では、保守政党は自由党(総裁・緒方竹虎)と日本民主党(総裁・鳩山一郎)の二つに分かれていた。
対する社会党は左右両派に分裂してはいたが著しく発展しており、憲法改正を阻止すべく統一を果たし、左派が優勢であった。
保守側でもこれに対抗し合同を望む声が強くなり、自由党と民主党が合流し自民党を結成した。
自民党が過半数を確保して長期政権を担い、社会党を中心とした革新勢力が1/3以上の議席を保つ「55年体制」が続く事になる。

戦後政党政治の復活と「55年体制」の成立

占領期の政党政治はアメリカの影響下

戦後、大政翼賛政治で消滅した政党が復活し、戦前に非合法政党とされた日本共産党が再建された他、日本自由党日本社会党などが結成された。
戦後の国内政治はこれら政党を中心に行われたが、占領期には度々GHQの干渉を受けた。
第22回総選挙で第一党となった自由党の鳩山一郎党首が組閣直前に公職追放となったのはその典型例だ。

親米派の吉田茂

このときに急遽首相となった親米派の吉田茂は、片山哲内閣、芦田均内閣を挟んで第5次内閣まで政権を担当する。
しかし、1951年8月に鳩山の追放が解除されると、自由党は吉田派と鳩山派に分かれ、鳩山派の文派自由党は、その後、日本民主党となる。

日本社会党が分裂後・再統一

この保守系政党の分裂に先立って、社会党片面講和の是非を巡って左右に分裂していた。
しかし、54年12月に憲法改正と再軍備を掲げる鳩山内閣が誕生すると、改憲阻止勢力の糾合が必要だと考えるようになる。
そして、翌55年2月の総選挙の結果、左右社会党合計で改憲阻止に必要な1/3以上の議席を確保すると、同年10月に再統一した。

自民党が誕生

この動きに危機感を覚えた保守政党は、日本経済団体連合会(経団連)など財界の希望もあって保守合同に踏み切り、自由民主党(自民党)が誕生する。
以後、冷戦終結後の93年まで、自民党が過半数を確保して長期政権を担い、社会党を中心とした革新勢力が1/3以上の議席を保つ「55年体制」が冷戦終結まで続く事になったのである。


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