吉田松陰

吉田松陰

吉田松陰

黒船に密航し、密出国を企てる

吉田松陰(1830〜1859年)は長州藩出身の武士で、江戸遊学中に黒船の来航に遭遇した。
二度目の黒船来航時に密出国を求めてペリー艦隊に接触している。
一度目の黒船来航以降、知識人の間では「海外を知るには実際の見聞が必要だ」という論調が強まっていた為、密出国を企てたのだ。
この計画は、ペリーに追い払われてしまった為、未遂に終わっている。
この後、松陰は自ら奉公所に自首して顛末を語っている。

幕政批判により、刑死となる

1858年に日米修好通商条約が提携されるが、この時、松陰の周りでは幕府が朝廷から勅許を得ずに条約を締結した事を批判する論調であった。
松陰はこの時に、老中の襲撃計画を立てていた為、幽閉されてしまう。
安政の大獄で取り調べを受けた際に、戊午の密勅(松陰は井伊直弼の排斥を求めた勅命を密かに水戸藩が降した事件)に関与した梅田雲浜との関係から、幕政批判の落書を投げ入れという疑いによって嫌疑を掛けられた。
この時、松陰は「落書きなどという無責任な行動はしない」と憤慨し、老中襲撃計画を踏まえた幕政批判を行ってしまった。
これにより、松陰は伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された(享年30)。
彼の思想を行動に移すという姿勢が、高杉晋作や久坂玄随、伊藤博文、山縣有朋などの人材を育てる事になった。



↑ページTOPへ