7代徳川家継

7代将軍 徳川家継

正徳の治に支えられた最年少の将軍

徳川家継(いえつぐ)(生没1709-1716)は江戸幕府7代将軍(在任1713-1716)。5歳で任官、8歳で死去した史上最年少の征夷大将軍。家継政権はわずか3年のため特に施策はない。

8歳にして皇女・八十宮と婚約

家継は8歳にして霊元法皇の皇女・八十宮と婚約した。これは徳川将軍家と天皇家初めての縁組みだった。この背景には、家宣の舅として権勢をふるう近衛基煕を憎んでいたことがあるとされる。なお、家継は同年に死去してしまう。

目次

家継の関連年表

出来事
宝永6年(1709) 6代将軍家宣の4男として江戸城内の山里別殿で生まれる。兄達が次々と早世する
正コ2年(1712) 元服の前に父・家宣が死去。従二位権大納言となり、家継を名乗る
正コ3年(1713) 元服の儀式を行い、5歳で第7代将軍に就任。家宣の意思を継ぎ、間部詮房と新井白石の主導で正徳の治を続行する。分地制限令を改定する
正徳4年(1714) 家継の生母・月光院に仕える大奥の絵島が、絵島・生島事件を起こし、風紀粛清のため関係者約1400人が処罰される。新井白石が提案した貨幣の改鋳を行い、正徳金銀を発行する
正徳5年(1715) 海舶互市新例(長崎新例)を出して金銀の海外流出を防止し、貿易額を制限する
正コ6年(1716) 霊元天皇の皇女八十姫と婚約、家継8歳で死去

鍋松(家継)が5歳で7代将軍に就任

父・家宣と側室の間に生まれた鍋松(家継)

家継の父・家宣(いえのぶ)は側室・月光院(げっこういん)との間に跡継ぎとして鍋松(なべまつ:幼名)こと家継を儲けたものの、家宣・病没時には4歳だった。
11歳で将軍となった伯父家綱の事例はあったが、4歳の幼児では将軍職の継承は躊躇われた。

父・家宣は幼過ぎる鍋松に将軍は早いと判断

そのため、家宣は余命幾ばくもなくなると、新井白石を病床に呼んで自分の考えを伝える。
白石には『折たく柴の記』という自伝があり、同書に以下のやり取りが記されていた。
「鍋松はまだ4歳に過ぎない。歴史をひもとくと、幼主を立てたことで世が乱れる事例は数多くある。自分としては御三家筆頭の尾張徳川家当主・徳川吉通(よしみち)に将軍職を譲りたい。あるいは将軍職を代行してもらおうと考えている」
鍋松が成人するまでの間は吉通に将軍職を継承させ、成人のあかつきに鍋松を将軍にと考えたのだろう。 既に吉通は24歳に達しており、年齢の点では申し分なかったが、白石は家宣の考えに反対する。

新井白石は「鍋松を将軍にすべき」と言い、父も了承

「幼主でも、鍋松を将軍に据えるべきである。嫡男・鍋松がいるにもかかわらず、吉通を後継者に指名すると、賛成派と反対派が生まれて世の乱れともなり兼ねない」。
家宣にしても、鍋松に将軍の座を譲りたかったはずだ。結果、白石の建言を受け入れる。

家継が将軍に、新井が顧問として幕政に関与

正徳3年(1713)4月、家継は5歳で7代将軍の座に就く。
徳川15代では最年少の将軍だが、幼児であったため、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)が江戸城内に常駐して家継を補佐した。
白石も政治顧問として幕政に関与したが、幼主のもとでは政情不安定となるのは避けられなかった。

絵島生島事件〜家継期のスキャンダル

家宣の時代より、幕府内では間部たち側近グループと政務を委任された老中の暗闘が水面下で進行していたが、家継の時代に入ると絵島生島(えじまいくしま)事件と呼ばれる疑獄事件となって噴出する。

大奥女性の絵島が酒宴を催し、帰城の門限を破る

翌・正徳4年(1714)正月12日、家継生母・月光院付の【御年寄として権勢をふるった絵島(女性:1681-1741)】が江戸城大奥を出て、増上寺と寛永寺境内の歴代将軍霊廟に参詣した。
絵島は代参後、山村座の芝居小屋で歌舞伎を見物し、その後、人気歌舞伎役者の生島新五郎たちを招いて酒宴を催したが、長居をして帰城の門限を破ってしまう。
このことが幕府当局により問題視され、吟味を受ける。

絵島と生島は引き離され、芝居小屋はお取り潰し

吟味の結果、絵島は信濃高遠藩にお預け。絵島の接待にあたった生島新五郎は三宅島に遠島。山村座はお取り潰しとなった。

この事件にまつわる陰謀説

この一件は大奥に出入りする御用商人にまで処罰が及ぶ疑獄事件に発展した。
が、その背景には政治スキャンダルに仕立て上げることで、月光院派にダメージを与えたい勢力が動いていた、という見方が根強い。(諸説あり真相は不明)

家継の父・家斉の御台所・天英院派が暗躍?

大奥では前将軍・家宣の御台所・天英院派の奥女中と月光院派の奥女中が対立しており、その対立が表に出たのではないかというのだ。
月光院派の中心人物である絵島のミスを問題視することで失脚させれば、月光院にとっては確かに痛手となる。少なからず、天英院派はこの事件で得をしたことになる。

幕府内の政争が些細な事件を過剰に扱ったか

天英院派の背後には老中たち幕閣、月光院派の背後には間部たち側近グループがいた。
家継が幼君であるため、その意思を伝える側用人の間部や白石に権力が集中していた。
将軍側近に抑え込まれた老中側は不満を募らせるが、そこで絵島が門限を破るというミスを犯す。
老中側はこれを政治問題化することで、月光院派ひいては間部たち側近グループに打撃を与え、その政治力を失墜させようと狙った。
奥女中と歌舞伎役者の醜聞として知られる絵島生島事件の本質は幕府内の権力闘争であった。という説である。

家継死去、8歳にして病没

将軍が幼かった故にスキャンダルを収められず

このスキャンダルは、幕政の混乱を白日にさらすものだったが、当の家継は幼く病弱でもあった。
混乱を収束させることもできず、正徳6年4月に8歳で病死した。

幼い子供でありながら、とても聡明だったという家継

家継の時代はみるべき施策はないが、家継個人についてはその利発さが伝えられている。
家綱は普段、大奥で生活したが、外部との交流が遮断された空間であることを弁えており、大奥の外に出る時は奥女中にお供しないよう命じたエピソードがある。

出典・参考資料(文献)

『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク


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