寺田屋事件〜薩摩藩の内紛

寺田屋事件〜薩摩藩内の戦い

文久2年4月23日(1862年5月21日)に、伏見の旅館・寺田屋に滞在していた尊皇攘夷の過激派志士が弾圧された寺田屋事件(寺田屋騒動)。同郷の藩士同士が斬り合う乱闘の末、7名死亡、2名致命傷、後に切腹したものを含めて9人の殉難者を出した。

坂本龍馬が1866年に寺田屋で伏見奉行の捕方2名を射殺した「寺田屋遭難」とは異なる。

目次〜騒動の勃発まで

寺田屋事件とその後

公武合体を目指した島津久光

尊王攘夷を志す【精忠組】との不和

薩摩藩の国父・島津久光は、朝廷と幕府が協力して外国に立ち向かう「公武合体」策の実現を目指す。久光は兄・島津斉彬の遺志を受け継ぎ、藩論を公武合体へまとめ上げる。
文久2年(1862)には1000人の兵を率いて上洛。朝廷の力を背景として、幕府に改革を迫った。
一方、藩内で尊王攘夷に傾倒する志士が集った「精忠組(誠忠組)」は、他藩の志士たちと接触しながら不穏な動きを見せ、久光の行く手に影を落としていた。

久光が【国父】として藩の実権を握る

黒船来航より、外様大名にも国政参画のチャンスが

江戸時代の幕閣は、三河以来の徳川家臣である譜代大名や旗本により運営されて来た。
ところが嘉永6年(1853)、ペリーの黒船来航の際、老中首座・阿部正弘は一門や外様大名に国政参画のチャンスを与える。

薩摩・島津斉彬は一橋慶喜を次期将軍にと画策

薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)は日本を外敵から護るためには、国内統一が急務と考えていた。 だから水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、宇和島の伊達宗城らと連合政権を目指し、一橋慶喜を次の将軍にしようと画策する。

諸国と通商条約締結、「安政の大獄」で反対派を弾圧

だが、大老・井伊直弼の政権は勅許なしで西洋諸国との間に通商条約を締結し、徳川慶福(よしとみ)(家茂:いえもち)を次の将軍とした。
憤慨した孝明天皇は「戊午の密勅」を下し、条約調印を批判して、合議制による幕閣運営を求める。 これに対し井伊は勅を封じ込め、「安政の大獄」を起こして反対派を弾圧。
斉彬も安政5年(1858)7月、50歳で急逝してしまう。

次の薩摩藩主・茂久が後見を【国父・久光】とす

斉彬の遺言により次の薩摩藩主になったのは、茂久(しげひさ)(忠義:ただよし)だった。
斉彬の異母弟・久光の長男で、この年19歳。そして茂久は父・久光を、自らの後見とした。
後に幕府も久光の役割を認め、藩内でも「国父(こくふ)」と称することが公布される。

精忠組(誠忠組)〜若手の過激派たち

大久保利通がリーダー、大老暗殺と脱藩を目論む

この頃、藩内では40人ほどの若い下級武士グループが、斉彬の遺志を継ぎ、水戸などの同志と共に大老・井伊を暗殺し、京都守衛のために「突出」(脱藩)しようと企んでいた。
西郷隆盛は「安政の大獄」の影響で奄美大島に送られていたから、大久保利通が実質的なリーダーだったと言われている。

久光が「朝知恵に忠勤を尽くす」と働き掛ける

この動きに対し、安政6年(1859)11月5日、「誠忠士之面々」に宛て、藩主・茂久名義の諭書が届く(以来このグループは「精忠組(誠忠組)」と呼ばれた)。
そこには、万一事変が起こった際は斉彬の志を貫き、朝廷に忠勤を尽くす心得だから、その時は補佐してくれとあった。
これは久光の意志表示であり、感激した大久保らは諭書に対し連名血判した請書を差し出す。

精忠組(誠忠組)の主要人物

大久保利通〜組の領袖として活躍
斉彬の時代に徒目付となり、斉彬の死後は失脚した西郷に代わり久光に接近
西郷隆盛〜久光に反目し流刑に
前藩主・斉彬に心酔する一方、久光とは反目する関係。諸藩の志士と交流を持つ
海江田信義〜多くの勤王家と交流
久光の護衛として上洛。京都での西郷の動静を久光へ伝え、流罪の原因を作る
大山巌〜隆盛を師と仰ぎ随従
誠忠組・過激派に属し、寺田屋騒動では公武合体派によって帰国謹慎処分となる
伊地知正治〜軍奉行として上洛
藩校造士館の教授。久光の上洛に同行した功績により、のちに軍奉行となる
西郷從道〜有馬らの一党に参加
誠忠組の有馬新七らの一党に参加するも、年少のため帰国謹慎処分となる
吉井友実〜久光の上洛に同行
西郷らと幼少期からの親友。京都での尊攘運動を久光に慰留される
税所篤〜大久保を久光へ紹介
斉彬久光の両方から信任を得て活躍。大久保と西郷を支え続けた
有馬新七〜尊攘のため義挙を決意
尊攘派の水戸藩と桜田門外の変を謀るも、最終的に手を引く結果に
村田新八〜西郷と同行し流刑に
幼少時から西郷を兄貴分として慕う。久光の上洛時には流刑となる

久光が精忠組を取り込み権力強化

藩主でないため権力に限りがあった久光

久光が出した諭書は異例だが、久光には出さねばならぬ事情があった。
久光は斉彬の志を継ぎ、薩摩藩を国政の舞台で活躍させたい。だが、久光は藩主ではなく、その権力には限りがあった。
さらに、藩の上層部を占める【門閥】連中からも重視されていなかった。

精忠組を傘下に取り込むことで権力を集中させた

門閥に対抗できる状態を敷くことが久光には急務だった。
だから久光は、重臣の小松帯刀と中山中左衛門を側近とした。また、精忠組を傘下に取り込み、大久保・堀次郎(伊知地貞馨)・岩下方平・有村武次(海江田信義)らを要職に取り立てた。
こうして門閥に対抗し、自分の手足となり働く有能な人材を集めてゆく。

久光に権力が集中する体制が確立されたのは、文久元年(1861)10月頃とされる。

島津久光の上洛と出府

久光が目指す公武合体と大名連合

朝廷と大名とで一丸になって諸外国に対抗したい

次に久光が目ざしたのは、兄・斉彬の遺志でもある「徳川家御扶助、公武合体」の実現である。
有力大名による連合政権で幕府を改造し、公武一丸となり国内外の諸問題解決に取り組むというものだ。

幕府と朝廷の要職も同志で固めたい

そのため久光は幕府の大老に松平慶永、将軍後見に一橋慶喜、朝廷の関白に近衛忠熙を据えようと考えた。
公武ともに、斉彬のかつての同志に実権を握らせるのである。

江戸に行くため久光が工作

久光がわざと江戸の薩摩藩邸を焼かせる

そのためには久光が、江戸に行かねばならない。そこでまず、小納戸役の堀次郎に密命を発し、文久元年(1861)12月7日、江戸三田の薩摩藩邸を焼かせた。

出府(江戸行)の大義名分を得た久光

実は翌年は、藩主・茂久の参勤の年にあたっていた。ところが幕府は、藩邸を失った薩摩藩主の参勤延期を認めざるをえなくなる。
つづいて幕府は、屋敷の造営費2万両を薩摩藩に貸与すると通知した。
そこで久光は、感謝の意を幕府に伝えるために出府(江戸行)するとの大義名分を得た。

江戸行が公表されるも、京都滞在の勅許が得られず

こうして文久2年1月16日、久光が兵を率いて江戸へ行く旨が、藩内に公表される。
だが、当初から計画に含まれている入京、滞在の勅許は中山中左衛門が京都で画策したものの、まだ得られていない。

京都での影響力確保に動く薩摩

大久保利通が上京、摂家の近衛忠房と対談

中山に続き大久保利通が1月13日、上京して島津家の縁戚にあたる摂家の近衛忠房に対し、京都守護や幕府・朝廷の改革などを求める。

朝廷に対し「幕府への危機感」を煽る薩摩

薩摩藩は近く行われる皇妹和宮と将軍・徳川家茂の婚儀を、幕府の謀略と見ていた。
和宮を得た幕府は、朝廷に何をするか分からないとの危機感を煽る。
そこで薩摩が、軍事力を持たない朝廷を護るというのだ。

薩摩が軍事力で朝廷を護る計画にOKがでる

この計画を大久保から聞いた近衛は当初、消極的だった。
ところが同年1月15日、江戸城坂下門外で、和宮降嫁を推進した老中・安藤信正が襲撃され、負傷するという事件が起こる。
これにより近衛は不安を募らせたのか、茂久・久光連名宛ての次の手紙を発し、薩摩の申し出を認めた。
「市蔵(大久保)より承けたまわり候御趣意、ご尤もに候。兎角に不穏時節参府にて、何卒天朝の御為、徳川家の御為、誠忠の程、良策しかるべき哉と存ぜられ候」

久光は出立する藩士らに厳格な行動を求めたが…

出立の直前、久光が藩内に示した訓令には、「尊王攘夷を名とし、慷慨激烈の説をもって四方に交を結ぶ」「浪人、軽卒(下級武士)」との接触は一切禁じるとあった。
久光はあくまで薩摩が、挙藩一致体制で国事周旋を行いたい。だから禁を破った者に対しては「遠慮無く罪科申し付」けるとも言う。
こうした厳しい姿勢が後日、寺田屋の惨劇を招くことになった。

西郷が久光の上洛に反対する

京都や江戸に疎かった久光、詳しかった西郷

薩摩に生まれ育った久光にとって、京都も江戸も未知の世界であった。
そこで久光は、西郷隆盛を大島から呼び戻す。西郷は安政の頃、斉彬の命で、慶喜擁立のために江戸や京都で奔走した経験があったから適任と判断された。

西郷は「田舎者の久光には無理」だと上洛に反対する

だが、西郷は久光の上洛に強く反対する。
藩主でもない、無位無官の久光が京都や江戸に行ったところで、よい結果などでるはずがないと思ったのだろう。
しかも西郷は久光を「地ゴロ(田舎者)」と批判したため、両者間に一生消えない遺恨を残すことになる。

久光が京を目指し出立、西郷は島流しに

結局、西郷が尊攘派の暴発を止めるため鹿児島を発つが…

それでも西郷は村田新八と共に3月13日、鹿児島を先発した。
大久保らの配慮により、九州諸藩の情勢を視察し、尊攘派の暴発を制止する役目を任されたのだ。

久光上洛に期待した過激派らが京都に集まりだす

この頃、久光上洛に期待した諸国の志士たちは、京都に集まって来ていた。
彼らは久光を擁して挙兵し、幕府の罪を糺すべく軍勢を東に進めるなどと主張していた。

西郷がなぜか大坂へ向かう(詳細は不明)

西郷は長州下関で、久光一行の到着を待つよう命ぜられた。ところが22日、下関に到着した西郷は筑前の平野国臣から事態の急を告げられ、海路大坂へ向かう。
この時の西郷の行動の真意については、よく分かっていない。

西郷は島流しに、久光は藩兵を率いて京を目指す

一方、3月16日に1000人の藩兵を率いて鹿児島を発った久光は、命令を無視した西郷に対し激怒した。
このため西郷は、徳之島をへて沖永良部島へと流される。

志士らが久光を“倒幕の御輿に”と狙う

開国で国内経済は一次混乱、志士らは思慮浅くも憤慨

勅許無しの開国で海外貿易が始まるや、国内の経済は混乱した。急激な物価高が生じ、庶民の生活を圧迫する。
諸問題の解決には尊王攘夷(尊攘)の実行しかないと考える諸国の「志士」たちは、藩や身分の壁を越えて、団結した。
(現実的にはこの時点での開国は必須であり、経済の混乱も一時的なモノであり、攘夷そのものが非現実的な理想にすぎなかった)

志士らの重鎮・田中河内介

団結した志士の重鎮のひとりが、公卿中山家の諸太夫・田中河内介である。
文久元年(1861)12月、田中の同志である出羽郷士の清河八郎らは九州各地を遊説して、肥後の宮部鼎蔵、筑前の平野国臣、筑後の真木和泉、豊後の小河一敏らと結び付き、志士との人脈を広げてゆく。

久光は志士の上洛関与を拒否

久光は上洛につき【志士らの関与を拒否】する

平野国臣と薩摩脱藩の伊牟田尚平は薩摩に赴き、小松帯刀(久光の重臣)や精忠組の有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮介・是枝柳右衛門らと接触する。
小松は久光上洛の実行を明かしたが、「志士」の関与は拒んだ。

過激派らが久光上洛を暴挙の“合図”のように認識

一方、有馬らは薩摩藩の方針如何にかかわらず、久光上洛を機に東西呼応して義挙を行おうと言う。
過激な有馬らは、久光の意から外れることを決意した。
この情報が清河や田中に伝わり、「志士」たちは久光上洛に期待し、上方を目指す。

あくまで幕府を支えるつもりの久光

久光は倒幕までは考えず、現体制での躍進を狙っていた

久光は、現在の徳川による幕藩体制そのものを否定してはいなかった。
自身に都合の良い次期将軍を擁立した後、有力大名たちと共に、改革を進めたいのだ。
だが、志士の多くは徳川幕府の存在を否定し、天皇親政を大義に新体制の実現を望むようになっていた。

長州藩の武力蜂起を促す【久坂玄瑞】ら

志士たちは、長州萩にも使者として筑後浪士の淵上郁太郎を送り込む。
淵上は文久2年(1862)2月19日、久坂玄瑞らに会い、「肥後・筑前・筑後・豊後辺の有志糾合し、和泉(久光)の伏見通行の折を伺ひ、京師にて一発、和泉をすぐさま京師へ引き込む策」への参加を求めた。
久坂は長州藩首脳部の薩摩藩への対抗意識を煽り、藩ぐるみで挙兵へ呼応させようと画策する。

寺田屋での戦い

薩摩藩内の尊王志士が一掃される結末に。

上洛した久光に【浪士取り締まり】の命

久光が京都入り、ここで出府届を提出

久光は兵庫から大坂、伏見を経て4月16日、一千の兵を率いて京都入りを果たす。
そして、近衛忠房や議奏の中山忠能・正親町三条実愛に「公武御合体、皇威御振興、幕政御変革」のため出府すると届け出た。

浪士の取締を対義に京都滞在を許された久光

すると朝廷側は久光に、京都に滞在して浪士たちの不穏な動きを取り締まり、治安を維持するよう勅旨を与える。
これで久光は、京都滞在の大義名分を得た。
本来ならば浪士の取り締まりは、京都所司代・酒井忠義の任務だが、朝廷はとても役に立たぬと見て、久光に期待したのだ。所司代の権威も、既にガタ落ちとなっていた。

有馬新七らが倒幕挙兵を決意

上方で挙兵し尊攘派の将軍を擁立する計画

この頃、薩摩藩では志士たちを、大坂藩邸の二十八番長屋に押し込めていた。
取り残された有馬らは田中河内介や小河一敏らと話し合い、東西の挙兵は断念するが、上方のみで立ち上がり、尊攘の大義を明かにし、まずは奸吏(不正をはたらく役人)を除くと決めた。
ターゲットは、井伊政権寄りだった関白・九条尚忠である。
つづいて「安政の大獄」で蟄居されている中川宮朝彦親王を復権させ、挙兵を正当化する勅を貰うのだ。
その際、中川宮を征夷大将軍、久光を副将軍にするつもりである。

有馬ら薩摩藩士は36人に膨れ上がる

この計画に、久光に従って来た守衛人数より西郷従道・篠原国幹・三島通庸らが加わるなど、薩摩側は36人となった。
しかし越後の本間精一郎が幕吏と争い、それを庇った清河八郎が薩摩藩邸から去るといったトラブルも起こる。

久光・大久保が有馬らを説得するも失敗

久光は18日に海江田信義と奈良原清(喜八郎)を、20日には大久保を大坂に派遣して説得させた。 だが、有馬ら義挙派は応じようとしない。

有馬らが寺田屋に集結、襲撃準備に入る

長州藩は200人が入京、二条城の所司代を襲う計画

長州藩は4年前の「戊午の密勅」を大義名分として、17日夜までに200人が入京していた。
京都で火の手が揚がったら、重役・宍戸九郎兵衛が指揮を執り、二条城の所司代・酒井忠義を襲うつもりである。

有馬ら薩摩勢は寺田屋に集結、襲撃の準備に入る

23日夕方、有馬ら薩摩勢は武器や弾薬を携え、大坂から4艘の船に分乗して淀川を溯り、伏見に至った。
また、真木和泉・原道太・古賀簡二・田中河内介・小河一敏ら志士たちも、次々と到着した。
彼らは船宿の寺田屋に集結し、襲撃の準備を進める。

久光が【鎮撫使】に藩士8名を選ぶ

説得に失敗した時に備え、剣術に優れた藩士を選び抜く

こうした動きを中山・堀から知らされた久光は、首謀者を自ら説得しようとする。
そこで堀が、もし抵抗した場合の指示を仰ぐや、「その時は臨機の処置があろう」と答えたという。
中山・堀は協議し、有馬らと親交があった精忠組の奈良原喜八郎・大山格之助(綱良)・森岡清左衛門・江夏仲左衛門・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・道島五郎兵衛・山口金之進の8人(のちに上床源助も加わる)を鎮撫使に選んだ。彼らは二手に分かれ、伏見を目指す。

寺田屋事件〜斬り合い乱闘が勃発

有馬らは「久光より先に中川宮に会う」といい鎮撫使と衝突

そして、寺田屋に到着した奈良原ら4人は、寺田屋階下の一室で有馬・田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮介に、久光の意を伝える。
ところが有馬らは、中川宮に召されているから、その用が済んでから久光のもとに行くと言い張り、押し問答になった。

鎮撫使・道島が抜刀、斬り合い乱闘になる

そこで道島が大声で「上意」と叫び、田中の眉間を切りつける。
残りの鎮撫使も到着し、斬り合いになった。
刀が折れた有馬は道島を壁に押さえ付け、味方の橋口吉之丞に「オイごと刺せ(自分と一緒に刺せ)」と叫ぶ。橋口は、有馬・道島の両人を串刺しにした。

刀を捨てた説得に志士らが立ち止まる

奈良原が刀を捨て説得、志士らが薩摩藩邸に赴くことに

2階から駆け降りて来た者たちも加わり乱闘が続いたが、奈良原が刀を捨てて階段を上り、君命である旨を説明して、ようやく治まった。
また、階下の別室にいた田中・真木も奈良原に説得されて、薩摩藩邸に赴くことになった。

長州藩は無関係を装い、薩摩藩士5人が密殺

鎮撫側は道島が即死の他、数名が重傷を負った。(鎮撫側:死亡者1名、負傷者4名)
志士側は有馬・柴山・橋口・橋口(伝蔵)・弟子丸龍助・西田直五郎が即死し、田中・森山新五右衛門・山本四郎が自刃した(後に「九烈士」と名付けられる)。(志士側:死亡者6名、負傷者2名(重傷の2名は切腹))
真木は久留米、吉村虎太郎は土佐など、国もとに帰された。
西郷従道ら2人の薩摩藩士は薩摩に送還されたが、行き場のない田中ら5人は薩摩に送られる途中、密殺される。
長州藩は無関係を装い通した。

久光(薩摩)の戦略的勝利に終わる

挙兵を止め、孝明天皇の信頼を勝ち取った久光

挙兵計画を頓挫させた久光を、孝明天皇は信頼した。そして久光の要請により、幕府に勅諚が出る。

朝廷の支持を得て久光が江戸へ入る

届けるのは勅使の公卿大原重徳で、護衛役は久光一行だった。
5月2日に京を発ち、6月7日、江戸に到着する。また、朝廷では6月23日に九条尚忠が関白を辞し、近衛忠熙がこれに替わる。

近衛忠熙が関白、慶永が政事総裁職、慶喜が後見職に

勅使は慶永を大老、慶喜を将軍後見職に就けるよう求めた。
背景に久光の意があるのを知りながら、幕府は7月1日、松平慶永を政事総裁職、一橋慶喜を将軍後見職にせざるをえなかった。
ほとんどが久光の望むとおりに事態が動いていた。

朝廷と幕府の力関係が逆転した「勤王年」に

天皇の威光を取り込めば、無位無官の外様大名の父でも、幕閣の人事が動かせることを、久光は天下に証明して見せた。
この年は朝廷と幕府の政治的力関係が逆転したとされ、後に「勤王年」と呼ばれる。


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