新撰組の屯所・制服・隊旗について簡単にまとめる。
新撰組の屯所は最初に入った八木邸から最終的に伏見奉公所へと5年間に4度も変わっている。
その間に彼らが身に付けていた制服だが、京都の大丸呉服店製の羽織であった。が、結局は定着せず、あまり身に付けられはしなかったようだ。
彼らが常に掲げていた隊旗は基本は手作り、隊士は「誠」一字の旗を掲げ肩口に肩章をつけて戦った。
文久3年(1863)3月、京都に残留した近藤勇ら一行は、壬生村の八木源之丞邸、同・前川荘司邸を屯所として活動を始めた。
八木邸では芹沢鴨の粛清が行われたが、西本願寺へ屯所を移す際に源之丞が隊士へ酒樽を振る舞ったという話もあり(子母澤寛『新選組遣聞』。源之丞の子息・為三郎の証言)、双方一定の信頼関係を築いていたと思われる。
また前川邸では、副長(総長)の山南敬助が切腹している。
元治2年(慶応元年=1865)2月23日のことで、山南は切腹前に島原の明里と前川邸の窓越に別れを告げたという話もあるが(子母澤寛『新選組物語』)、幕末当時の資料に明里の名前は出てこない。
山南の切腹から間もなく、新選組は西本願寺へ屯所を移す。
西本願寺は「禁門の変」の際、境内へ逃げ込んだ長州の兵を僧形にして逃がすなど幕府から睨まれる言動があった。
そのため抑止の目的もあって所を移したといわれる。
新選組は、北集会所と堂字、太鼓番屋を屯所として使用した。
ただし別途牢屋や首斬り場を設け、境内では大砲小銃の調練も行っている。
大砲小銃の調練は会津藩への交渉が功を奏し壬生寺で行われることになったが、西本願寺は新選組のために苦労をしている。
そして、堀川通の東、木津屋橋の南、不動堂村の内一町四方の地所を本願寺より購求して西本願寺の負担で新たな屯所が新築された(西村兼文『新撰組始末記』)。
新選組隊士・宮川信吉の書簡によると、新選組は慶応3年(1867)6月15日に西本願寺が建てた所へ移った。
屯所は西村兼文の『新撰組始末記』によると、美麗を尽したものであったという。
なお近年の研究で、屯所の場所は西九条村(現在の南区西九条)の領地だったと判明している。
また、新選組といえば、その羽織が有名である。 八木為三郎の証言には「浅黄(葱)のうすい色のぶっさき羽織で、裾のところと、袖のところへ白い山形を赤穂義士の装束のように染抜いてあるのですが、大きな山で袖のところは三つ位、裾が四つか五つくらいでした」(「八木為三郎老人壬生ばなし」『新選組遺聞』)とあり、『永倉新八』にも羽織は京都の大丸呉服店であつらえ、「浅黄地の袖へ忠臣蔵の義士が討ち入りに着用した装束見たように、段々筋を染め抜いた」との記述がある。
子母澤寛の著述も『永倉新八』も一次資料として使用するには注意が必要だが、文久3年(1863)8月10日の「大和屋焼き打ち」に参加した隊士のいでたちについて「羽織は浅黄にて誠と云字を染込有し由。白の鉢巻後へ余程長く垂有之し由」(『八條隆祐卿手録』)と記した資料があり、浅葱色の羽織を着用していた可能性は高い。
ちなみに浅葱色は武士が切腹に臨む際に着用する裃と同色であり、死地に臨む覚悟をあらわしていると推測される。
しかし近藤勇や土方歳三は着用せず、自然と誰も着なくなってしまった(「八木為三郎老人壬生ばなし」※『新選組遺聞』)。
※八木為三郎とは新選組が屯所としていた八木家の子息、為三郎の証言をもとに子母澤寛らは記事を著している
羽織と並ぶ新選組のトレードマークに、隊旗があげられる。
隊旗は「六尺四面の大旗、旗は赤地に『誠』の字を白く染め抜き」(『永倉新八』)というもので、八木為三郎の談話にも「緋羅紗で、縦にやや長く四尺位、幅は三尺位のもので白く『誠』という字を抜き、その下の方に波形の山形がついていました」とある。
西村兼文の『新撰組始末記』にも「赤地鮨(絹)に誠の字を白ぬきにしたる四半の大籏」との記述が見られ、目立つ存在であったようだ。
ただし『甲子戦争記』には「精忠」の文字に山形模様の隊旗だった旨が記されており、隊旗は複数存在していたと考えられる。
残念ながら、いずれの隊旗も、現存は確認されていない。
今後あらたに発見される可能性も無いとは言い切れないが、非常に低いだろう。
現存の資料には、『新選組袖章』がある。寸法は縦が約18.5p、横が約7.0pで、下部に山形模様が見られ「誠」の一文字が型抜きで染められている。
「袖章」という資料名がついているが、実際には肩口に着けたと思われる。
小旗として槍の穂先に付けたとも指摘されているが、いずれにせよ新選組の証として使用された。