局長の近藤勇が斬首された後、新撰組を率いたのは副長・土方歳三と三番隊組長・斎藤一だった。薩長(新政府軍)に倣い西洋式に装備の近代化をはかり、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館戦争と戊辰戦争を戦い続けるも、土方の討死によって新撰組は終焉を迎える。
慶応4年(1868)4月19日〜23日
近藤勇を失った土方歳三は、慶応4年(1868)4月11日、わずかの護衛とともに市川国府台に向かう。
江戸城が開城されたこの日、新政府軍に徹底抗戦を叫ぶ旧幕臣2000余が、続々と国府台に集結していた。
12日には旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介が、フランス式の伝習歩兵一大隊を率いて到着する。
一同のなかで最も大物であったこの大鳥が全軍の総督となったが、土方も衆に推されて参謀に選ばれた。
そんな土方の実力が発揮される時はすぐにやってきた。旧幕府脱走軍は、土方と会津藩士秋月登之助が率いる前軍と、大鳥が直接率いる中軍、後軍に分かれ、別ルートで日光に向かったが、途中の宇都宮城を前軍が単独で攻撃したのだ。
4月19日午前10時頃、土方が率いる桑名藩隊が城の東南から攻め込み、秋月の伝習第一大隊が搦手の北方を突いた。
両軍の大砲、小銃による激しい撃ち合いとなり、さらに白兵戦が展開された。
戦闘中、ある兵士が激戦に耐えきれず逃げようとしたのを見た土方は、その怯懦が許せず、「退却する者は誰でもこうだ」と言い、一刀のもとに斬り捨ててしまった。
これで他の兵士たちは奮い立ち、ついに午後4時頃、宇都宮城を陥落させたのである。
その後、23日に新政府軍の反撃を受け、土方は足指に被弾、城は奪還されてしまう。
しかし、初めての近代戦で指揮官としての能力を発揮したことで、土方の声望は高まったのだった。
慶応4年(1868)4月20日〜明治元年9月22日
土方歳三が旧幕府軍の指揮官として北関東で戦っている間、会津に先行していた新選組本隊を統率していたのは、斎藤一だった。
土方が宇都宮の戦いで足指に負傷したことで、一時的に戦線離脱を余儀なくされた。そこで土方が、自分に代わって隊を指揮する者として選んだのが斎藤だった。
すでに沖田総司が病に倒れ、永倉新八、原田左之助が隊を離れたいま、新選組をまかせられるのは斎藤しかいなかったのだ。
土方から斎藤への隊長委任がなされたのは、慶応4年(1868)4月29日のことと思われる。この日、会津城下七日町の旅宿清水屋に土方が到着し、会津に先乗りしていた斎藤らと再会した。
会津藩に友軍として迎えられた新選組には、さっそく白河への出陣が命じられた。
新政府軍が奥州の入り口である白河まで進攻しており、この要衝を奪回する必要があったからだ。
閏4月5日、斎藤以下の新選組は松平容保に拝謁し、金子を下されて激励された。
そして新選組を含む会津藩軍は閏4月21日に白河城(小峰城)を見事奪取することができた。
25日には新政府軍の反攻があり、激戦の末に敵を退けたものの、隊士菊地央と横山鍋二郎が戦死した。
さらに5月1日、戦力を増強して再度攻撃を仕掛けてきた新政府軍の前に、隊士伊藤鉄五郎が戦死をとげ、会津軍も多大な損害を出して白河城は奪われてしまった。
この後、なんとしても白河城を奪い返したい会津軍は、幾度も攻撃を仕掛けるが、ついに奪還はできずに終わる。
新選組も5月27日の戦いに敗れたあとは猪苗代湖南の三代に滞陣し、他方面からの敵の進攻にも備えるため、白河口の戦線から兵を引くことになったのだった。
その頃、5月30日に江戸千駄ヶ谷の植木屋平五郎方で療養していた沖田総司が没した。剣一筋に生きた。27年の儚い生涯だった。
7月以降、新政府軍の会津侵攻が激化する。会津は周囲が山に囲まれているので、敵がどの峠から攻めてくるのかわからず、藩境のすべての峠に防御の兵を配置しなければならなかった。
8月19日、新選組には母成峠の守備が命じられ布陣した。
すでに7月上旬には土方歳三も負傷が癒えて戦線に復帰していたが、隊の指揮は信頼の置ける斎藤に引き続きまかせられていた。
しかし8月21日、新政府の大軍が母成峠に押し寄せた。
新選組の守備陣も、大軍に蹴散らされるようにして突破され、木下巌、千田兵衛、鈴木練三郎、小堀誠一郎、漢一郎、加藤定吉ら六人の隊士が戦死した。
新選組と会津藩の惨敗を目の当たりにした土方は、23日、単身庄内へ向かった。友軍の庄内藩を説き伏せ、会津への援軍を依頼するためだった。
この策は結局うまくいかず、土方はそのまま会津に戻ることなく北上し、転戦を続けることになる。
24日には旧幕府脱走軍の大鳥圭介も援軍を求めて米沢藩を頼ることを決めた。
こうした土方や大鳥の行動は、一見筋が通っているようだが、斎藤には納得がいかなかった。
そして、大鳥に向かってこう言ったという。
「ひとたび会津に来たならば、いま落城しようとしているのを見て、志を捨て去るのは誠義ではない」
会津藩が窮地に陥っているいまこそ、会津に残って戦うべきだと斎藤は主張した。
新選組が会津からこうむった恩義を、実は誰よりも重く感じていたのが斎藤だった。
鶴ヶ城(会津城)が籠城戦に入ったあとも、斎藤は自分に従う12人の隊士とともに城外で戦い続けたが、9月5日の如来堂の戦いで新政府軍の攻撃を受けて壊乱状態となった。
隊士のうち小幡三郎、荒井破魔男、高田文二郎、高橋渡らが戦死をとげている。
幸いに斎藤は九死に一生を得、そのまま9月22日の会津終戦を迎えることになる。
そして会津に対する深い思いからか、斎藤は戊辰戦争終結後も会津人として行動し、大幅な減封による斗南移住という会津藩に課された苛酷な運命をも受け入れた。そうすることが、斎藤にとっての「誠義」だった。
明治元年(1868)10月21日〜明治2年5月18日
慶応四年(1868)9月初旬、仙台に入った土方歳三は、そこで旧幕府海軍副総裁の榎本武揚と出会った。
新政府への抗戦を叫ぶ榎本は、仙台藩が15日に降伏すると、蝦夷地(北海道)の箱館に渡航して戦い続けることを主張する。
これに土方は賛同し、北の大地に渡ることを決めた。
元号が改まって明治元年となった10月12日、土方らは仙台を出航、20日に蝦夷地鷲ノ木浜に降り立ち、26日に箱館の五稜郭に入城した。
五稜郭は徳川幕府が北方防備の拠点として築造した西洋式の城で、周囲を土塁と堀で囲んだ巨大な星形の要塞だった。
入城後すぐに土方は、新政府軍側の松前、江差を制圧し、12月15日に五稜郭に凱旋した。その日、蝦夷地平定を祝う祝賀会が盛大に行われ、旧幕府勢力による箱館政権が樹立されたのだった。
22日には政権の役職を決める選挙が行われた。榎本が総裁に選出されたほか、土方には陸軍奉行並という役職が与えられた。
陸軍奉行の大鳥圭介とともに、箱館の陸軍を統率する役目である。
すでに季節は冬。雪深い蝦夷地に新政府軍が攻めて来ることはなく、土方たちはつかの間の休息を得ることができた。
この年の大みそか、孤山堂無外という箱館の俳人が句会を催した。箱館山の谷地頭にある無外の家に招かれた15人ほどの客のなかには、箱館政権閣僚の中島三郎助、川村録四郎、それに土方歳三の姿があった。席上、土方が詠んだ一句が伝わっている。
「わが齢 氷る辺土に年送る 豊玉」久々に見る豊玉の雅号である。思いがけず北の果ての蝦夷地で年を送り、年齢を重ねることになった土方の心境は、どのようなものだったのか。
明治2年(1869)4月9日、雪解けを待って北上した新政府軍が蝦夷地に上陸した。
これを迎え撃つため、要衝の二股口の台場山に土方歳三が出陣。衝鋒隊、伝習歩兵隊のわずか130を率いた土方は、4月13日から翌日にかけて、激しい銃撃戦の末に600もの敵軍を撃退した。
その後、兵力を800に増強した敵が23日になって再び攻撃を開始した。
土方軍は援兵の伝習士官隊を含めても200ほど。それでも銃撃戦に一歩も引かず、ついに24日夕刻には敵軍を前線から一時撤退させたのだった。
勝利を確信した土方は、その晩、自ら酒樽を抱え、兵士たちを讃えながら酒をふるまってまわる。
そして、「ただし、酔って軍律を乱してはいかんから、みな一杯だけだ」と冗談めかして言うと、兵士たちはどっと笑ったという。
こうして土方の二股口は鉄壁の防御を誇ったが、海岸線の矢不来が突破されて退路を断たれる恐れが出てきたため、不本意ながら撤退を余儀なくされる。
総裁の榎本武揚は、この頃になると、内心では降伏を考えはじめていた。
しかし、土方には降伏などという選択はありえない。
「俺が近藤勇とともに死ななかったのは、どうしても徳川の無実をはらしたかったからだ。もし降伏をして許されでもしたら、地下の近藤に合わせる顔がない」、そう言って、最後の戦いに出る覚悟を決めたのだった。
5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が始まったこの日、土方は額兵隊80人だけを従えて騎馬で出陣した。
箱館山のふもとの弁天台場では新選組が孤立しており、箱館の奪還とともに新選組の救援に駆けつけなければならなかった。
午前10時頃、箱館の町外れに設置された一本木関門に至ると、「我この関門にありて退く者は斬る」と味方を叱咤する。
しかしその時、1発の銃弾が飛来して、土方の腹部に命中した。
馬上で刀を振りかざしていた土方は、たまらず馬の鞍から転げ落ちた。かたわらに付き添ってい沢忠助が駆け寄って抱き起こしたが、すでにひと言も発することはなかった。
享年は35。盟友近藤と誓った節義を守る生き方を、土方は最後まで貫き通した。
その7日後、箱館政権は降伏し、新選組も京都以来6年間にわたる歴史に終止符を打つ。