新撰組の変遷

新撰組の変遷

「芹沢・近藤」から「近藤・土方」へ

新撰組こと壬生浪士組は、最初期は「芹沢鴨・近藤勇の二大隊長体制」から始まり、最終的には「近藤・土方体制」が定着した。副長職も土方歳三が単独で就く前は山南敬助との二人体制であった。新撰組の体制の変化、組織の拡大、その変遷をまとめる。

目次

最初期は【壬生浪士組】と名乗っていた

あくまで自称であり、認知度は極めて低かった

文久3年(1863)3月、会津藩の御預りとなった一行は、壬生村(現在の京都市中京区)に屯所を置いたことから「壬生浪士組」を自称したといわれている。
しかし、井上源三郎の兄・松五郎の『文久三年御上洛御供旅記録』4月4日の記述に「情(精)忠浪士」という名称が見られ、壬生浪士組という名称がどこまで浸透していたかは疑問が残る。

八月十八日の政変以降【新選組】を名乗る

朝廷より隊名を下賜された

壬生の浪士たちは、文久3年(1863)の「八月十八日の政変」以降、「新選組」を名乗った。
隊士・島田魁の記した『島田魁日記』に、八月十八日の政変の出動功績により朝廷が隊名を下賜し、それを武家伝奏が伝えた旨が記されている。

元々は会津藩に「新撰組」という組織が存在していた

そもそも幕末以前に制定された会津藩の軍編成のなかに本陣を固める「新撰組」という組織があり、「諸芸秀俊の子弟」で構成されていた(『志ぐれ草紙』)。
その会津の新撰組と、猛者が集う壬生の浪士を重ねて名付けられたと推測される。

芹沢一派と近藤一派が幹部職を独占

会津藩配下となると同時に、派閥争いが勃発

そんな壬生浪士(新選組)のメンバーだが、当初は京都残留を希望して会津藩へ嘆願書を提出したのが芹沢鴨、近藤勇、新見錦、粕谷新五郎、平山五郎、山南敬助、沖田総司、野口健司、土方歳三、原田左之助、平間重助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八、斎藤一、佐伯又三郎、阿比留鋭三郎の17名で、そこに殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵、清水吾一の7人を加えた24名が、文久3年(1863)3月15日、正式に会津藩の配下となった。
もっともこのメンバーで活動した期間は短く、3月25日に殿内が暗殺されると、根岸一派らは京都を離れ、近藤、芹沢の一派が実権を握る。

殿内義雄〜壬生浪士組最初の粛清

殿内は近藤に憎まれていたとされ(理由は諸説あり)、近藤らに酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い死去した。
文久3年(1863)5月の出来事で、近藤勇と沖田総司に襲われ、沖田に殺害されたという。(近藤書簡より)
これが壬生浪士組における最初の粛清だった。(享年34)

芹沢・近藤らの一派が勢力を競う

芹沢、近藤たちは、文久3年4月頃に、第一次の隊士募集を行った。
自然隊の組織化も図られ、永倉新八の『浪士文久報国記事』には「隊長 芹沢鴨、近藤勇、副長 新見錦、山南敬助、土方歳三、組頭 沖田総司、倉新八、藤堂平助、原田左之助、斎藤一、平山五郎、野口健次(司)、井上源三郎、勘定方 平間重助」という役職者の氏名が見える。

このうち新見錦は局長を務めたともいうが(永倉新八『同志連名記』)、いずれにせよ、この時期の幹部職は近藤と芹沢の一派で占められていたことがわかる。

芹沢粛清、近藤が実権を握る

文久3年(1863)に近藤の対抗勢力が全て粛清された

それが文久3年9月、芹沢とその一派が粛清されると、新選組の実権は近藤、土方らが握るようになる。
隊の幹部も、近藤一派を中心に固められた。

伊東甲子太郎の台頭〜近藤と伊東の勢力争いに

そして元治元年(1864)11月、長州征討の機運が高まるなか編まれた『行軍録』には、組頭にあたる幹部として沖田総司、伊東甲子太郎、井上源三郎、斎藤一、尾形俊太郎、武田観柳斎、松原忠司、谷三十郎、原田左之助といった顔ぶれが見える。
このうち伊東は、入隊して早々の抜擢であった。

親・近藤の隊士らで固められていた

同資料には永倉新八、藤堂平助の名前が記されていないが、当時藤堂は江戸におり、永倉は謹慎していたためである。
二人とも後に組頭に就いているため、やはり江戸以来の近藤、土方の同志を中心に、京都、江戸で募集した隊士から有能な者を選抜して、役職に就けていたことがわかる。

伊東入隊後、新撰組が組織改編

一番沖田、二番永倉、三番斎藤のよく知られる編成に

また西村兼文の『新撰組始末記』によると、伊東甲子太郎の入隊後、組織の改編が行われたという。
そして「総長・近藤勇、副長・土方歳三、参謀・伊東甲子太郎」のもと、「一番・沖田総司、二番・永倉新八、三番・斎藤一、四番・松原忠司、五番・武田観柳斎、六番・井上源三郎、七番・谷三十郎、八番・藤堂平助、九番・鈴木三樹三郎、十番・原田左之助」と十個の隊が編成された。

が、史料によって構成に違いがみられる

一方、山崎丞の『取調日記』には、組頭として沖田総司、永倉新八、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助、斎藤一、武田観柳斎、谷三十郎、伊東甲子太郎の名前が見える。
同資料の表表紙には「慶応元乙丑歳 取調日記 五月吉祥日」とあり、慶応元年(1865)5月時点で十番編成ではないことがわかる。そのうえ誰が何番組頭かは記されていない。

1867年では原田左之助が「七番組頭」だった

また原田左之助については「三条制札事件」での出動功績により褒賞を賜った記録に「一、金二十両宛 七番組頭 原田左之助」とある。
この記述は前掲の『新撰組始末記』にあり、褒賞金の下賜された慶応2年(1867)12月20日時点で原田は「七番組頭」だったという。

組頭が相次いで死去しており、構成が頻繁に変わっていたか

そもそも組頭とされる隊士のうち、松原忠司は慶応元年(1865)9月1日に死亡し、谷三十郎も翌慶応2年(1866)4月1日に死去、武田観柳斎が同年10月に脱走し(『新選組金談一件』)、藤堂平助と鈴木三樹三郎は慶応3年(1867)3月に伊東甲子太郎らと隊を離れ御陵衛士(高台寺党)を結成するなど、複数人が死亡・離脱している。
その都度、組織の編成を見直さなければならなかったことは想像に難しくなく、新選組では臨機応変に対応していたのだろう。

組織・隊員の変遷

結成時の勢力図(24名)

芹沢派
芹沢鴨/新見錦/平山五郎/野口健司/平間重助/粕谷新五郎/佐伯又三郎 以上7名
近藤派
近藤勇/山南敬助/土方歳三/沖田総司/井上源三郎/永倉新八/斎藤一/原田左之助/藤堂平助 以上9名
その他
殿内義雄/家里次郎/根岸友山/遠藤丈庵/鈴木長蔵/清水吾一/神代仁之助/阿比留鋭三郎 以上8名

※『会津藩庁記録』など

文久3年(1863)3月 壬生浪士組結成時

隊長
芹沢鴨/近藤勇
副長
新見錦/山南敬助/土方歳三
組頭
沖田総司/永倉新八/藤堂平助/原田左之助/斎藤一/平山五郎/野口健司/井上源三郎
勘定方
平間重助

※永倉新八『浪士文久報国記事』など

元治元年(1864)11月 第一次長州征討前

局長
近藤勇
副長
山南敬助/土方歳三
諸士調役兼監察
−−−−
副長助勤(組頭)
沖田総司/永倉新八/井上源三郎/斎藤一/藤堂平助/武田観柳斎/松原忠司/谷三十郎/伊東甲子太郎
平隊士
島田魁 以下
小荷駄隊雜具方(勘定方)
原田左之助/酒井兵庫/山崎丞/尾関弥四郎/輪堂貞三/河合耆三郎/矢田賢之助/前田蔵人/神崎一二三/加藤民弥

※行軍録(『異聞録』所収)など。行軍録では、副長の山南敬助、組頭の永倉新八と藤堂平助がなく、組頭に伊東甲子太郎が入っている

慶応2年(1866)12月頃 第二次長州征伐後

局長
近藤勇
副長
土方歳三
参謀
伊東甲子太郎
組頭
沖田総司/永倉新八/井上源三郎/斎藤一/藤堂平助/山崎丞/原田左之助/三木三郎(鈴木三樹三郎)/尾形俊太郎
監察
服部武雄/新井忠雄/吉村貫一郎/篠原泰之進/大石鍬次郎
平隊士
島田魁 以下86名
同志
斯波緑之助 以下9名

※「新撰組人名録」(『風聞記』所収)など

慶応3年(1867)6月頃 幕臣取立時

局長
近藤勇
副長
土方歳三
参謀
伊東甲子太郎
副長助勤(組頭)
沖田総司/永倉新八/井上源三郎/原田左之助/山崎丞/尾形俊太郎
諸士調役兼監察
吉村貫郎/大石鍬次郎/安富才助/岸島芳太郎/安藤勇次郎/茨木同/村上清/谷(近藤)周平
平隊士
大谷勇雄 以下65名
仮同志
白原七郎右衛門 以下12名

※幕臣取立名簿『新徴組大砲組之留』など

慶応3年(1867)11月下旬前後 鳥羽・伏見開戦前

隊長
近藤勇
副長
土方歳三
両長召招人
上田馬之丞 以下12名
副長助勤(組頭)
永倉新八/原田左之助/井上源三郎/斎藤一/山崎丞
監察
吉村貫一郎/大石鍬次郎ら
伍長
岸島芳太郎/安富才助/中村玄道/青柳牧太夫ら
局長附組頭
石井清之進/相馬主計
平隊士
島田魁 以下
隊長附人数
柴岡剛造 以下

※永倉新八『浪士文久報国記事』、島田魁『京都ヨリ会津迄人数』など

役職・肩書の一覧

局長・隊長
組(局・隊)を統率する長。
副長
局長・隊長に次ぐ地位でその補佐役。
参謀
慶応2年、伊東甲子太郎処遇のため、新設。局長の相談役。御陵衛士の分隊で廃止された。
副長助勤
副長に次ぐ幹部隊士で、副長の補佐役。組頭として各一隊(隊士10名)を率いた。
組頭
元治元年に設置。それまでの副長助勤に相当し、補佐役である2名の伍長以下の隊士を率いた。
諸士調役兼監察
偵察・情報収集と内部査察を担当。
勘定方
会計方ともいい、公金を取り扱う経理担当部署。『金銀出入帳』を作成している。
小荷駄雜具
平時の勘定方の兼任で、戦時の兵站を担当する。
書記
西村兼文によると、慶応元年に設置。組織の活動を記した日誌などの記録担当係か。
伍長
戦時の編成の際に、平隊士5名を率いた。
平隊士
役付きでない一般隊士。平士・平同士ともいう。
両長召抱人
局長と副長に近侍する「小姓」のような存在で、両長の身辺雑務係か。

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