薩英戦争

薩英戦争

薩英戦争は1862年の生麦事件の報復のため、翌1863年7月、イギリス艦隊が鹿児島に来航し、薩摩藩との間で起こった戦い。
戦闘は3日間続き、イギリス軍は戦死13人、負傷者50人に及ぶ大きな被害を受けた。
薩摩藩の被害は戦死5人であった。

薩英戦争

薩英戦争

生麦事件を契機に薩摩を英艦隊が砲撃

生麦事件

1862年、島津藩士・島津久光は、幕政改革を求めて京都から江戸に向かった。
その帰路、生麦村(横浜市)付近で、久光の行列を騎馬で横切ったイギリス人が、薩摩藩士に殺傷された事件。
商人であったリチャードソンが殺害され、他に2人が重傷を負った。

生麦事件の現場

生麦事件の現場

幕藩体制の古さを露呈した事件

生麦事件を受け起こったイギリス政府は、多額の賠償金と犯人の身柄を日本に要求した。
しかしイギリス政府から抗議を受けた江戸幕府には、薩摩藩を直接裁く実行力はなかった。
当の薩摩藩は、犯人は逃亡してしまったとして引き渡さず、賠償金は幕府が代わりに支払う結果となった。

賠償は幕府に押し付け、戦争準備に入る薩摩

その後も、薩摩藩はイギリス政府の要求を拒否し続けた。
一方で、イギリスからの報復攻撃を想定しており、錦江湾の沿岸に台場を急増すると、大砲を据え付けた。

イギリス軍艦が薩摩へ来航

1863年6月27日、イギリスの軍艦7隻が薩摩軍を脅かす目的で錦江湾に侵入する。
鹿児島城内で賠償金や犯人引き渡しについて話し合う事を提案するが、薩摩藩はこれを無視。
このとき、一部の薩摩藩士たちは沖に停泊するイギリス軍艦に近づき奇襲を掛けようとするが失敗に終わる。

薩英戦争勃発

7月1日、武力行使に出る事をイギリス側が薩摩藩に通告。
翌2日、イギリス側が薩摩藩の汽船3隻を拿捕したのを切っ掛けに戦闘が開始された。

痛み分けとなった戦い

イギリス戦艦が搭載していた大砲は射程距離が長く、台場だけでなく、城や城下町へ弾を撃ち込まれ、薩摩藩は甚大な被害を受けた。
鹿児島市街は集成館をはじめ、鹿児島市街の約1割が焼失している。
一方のイギリス側も緒戦で油断していた事もあり、3隻の戦艦が破損し、死傷者が60人を超える被害を出している。
イギリス艦隊の旗艦であった「ユーリアラス」は薩摩の砲撃で大破し、艦長、副長ともに戦死した。
この戦いでイギリス艦隊は大砲90門を装備、薩摩側は大小合わせて85門の大砲で応戦した。
戦争の後、互いの実力を知った薩摩藩とイギリスは急速に近づいていく。

イギリス艦隊7隻

  • ユーリアラス
  • パール
  • コケット
  • アーガス
  • パーシューズ
  • レースホース
  • ハボック
薩英戦争絵巻

薩英戦争絵巻
砲台の大砲によって得イギリス艦隊を攻撃している様子がわかる


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