薩長土・幕府と顔が利いた坂本龍馬は、味方以上に多くの敵が存在した。慶応3年(1867)11月15日、午後8時すぎ京都河原町の近江屋で謎の刺客に襲撃され、龍馬は絶命する。
11月15日は奇しくも龍馬の誕生日だったが、その日も龍馬は、滞在先の近江屋の近所を出歩いたり、来客を迎えたり平穏な1日を過ごしていた。龍馬の最期の一日についてまとめる。
慶応3年(1867)11月15日は、前日から雨が断続的に降っていたが、夜にはすっかりあがって月も見えていた。その日は満月であった。
龍馬の潜伏先である京都河原町蛸薬師(たこやくし)下ルの醤油商・近江屋新助方を、中岡慎太郎が訪れたのは六ッ時(午後6時頃)のことだった。
用件は、前年の三条制札事件で幕府に捕縛された土佐藩士・宮川助五郎が釈放されることになったので、その身柄引き取りに関する相談だったという。
近江屋で龍馬が起居していた部屋は、2階の奥の8畳間。2、3日前から風邪気味だった龍馬は、真綿の胴着に綿入を着て、その上に黒羽二重の羽織をはおって火鉢にあたっていた。
北側の床の間を背にした龍馬に対し、中岡は火鉢をはさんで南側に座った。
話題の中心は宮川引き取りに関することだったであろうが、大政奉還直後のあわただしい時期、山積する政治課題にも話は及んだと思われる。
六ッ半(午後7時頃)、四条の書肆(しょし:書店)菊屋の息子・峯吉が近江屋を訪れた。
峯吉は中岡と親しい17歳の少年で、この日も中岡から薩摩屋という商家への使いを頼まれ、返事の書状を持って帰ってきたのだった。
中岡が薩摩屋からの書状を読み、先方の様子などを峯吉に尋ねていると、そこに土佐藩下横目の岡本健三郎がやってきた。龍馬とは先般、一緒に越前福井まで出張した人物で、この日も堂々と二階に上がってきたようだ。
場は自然と雑談に移り、小半時(一時間ほど)ばかり4人で話していると、やがて龍馬が空腹を感じたとみえ、かたわらの峯吉に向かって言った。「腹が減った。峯、シャモ(軍鶏)を買って来てくれ」
軍鶏というのはニワトリの一種で、江戸時代には軍鶏鍋などにして広く食されていた。
これに中岡も同意して、「俺も減った、一緒に食おう。健三郎、お前も食って行かぬか」と誘ったが、岡本は、「俺はまだ欲しくない。ちょっとほかに行く所もあるから、峯吉と出かけよう」と遠慮した。
岡本には四条の薬屋・亀田太兵衛方の娘・お高という恋人があり、そこに行くと察した中岡が「また例の亀田に行くのだろう」とからかったが、岡本は「決してそうではない。別に用事があるのだ」と照れながら部屋を出ていった。
近江屋から表に出た峯吉と岡本は、四条の辻で別れ、峯吉は四条小橋の鳥新という店に至った。龍馬の希望どおり「軍鶏をくれよ」と店の者に告げると、「いま軍鶏をつぶすので、しばらくお待ちを」ということだった。
待つこと2〜30分。ようやく軍鶏肉を手に入れた峯吉が、竹皮包みをさげて近江屋に帰ったのは、五ッ半(午後9時頃)過ぎのこと。
そこで峯吉が見たものは、すでに刺客が去ったあとの近江屋の血潮飛び散る惨状だった。
龍馬暗殺の基本史料「坂本と中岡の死」(岩崎鏡川編『坂本龍馬関係文書』所収)
五ッ時(午後8時頃)過ぎ、近江屋を訪れた刺客は、偽名を記した名札を用意していた。
龍馬の下僕をつとめていた元相撲取りの藤吉が取り次ぎに出ると、「拙者は十津川郷の某と申す者だが、坂本先生がご在宅ならばお目にかかりたい」といって名札を出している。
十津川郷士は、龍馬も中岡も顔見知りが多いことを藤吉は知っていたので、特にあやしまずに取り次ぎ、名札を受け取って2階への階段を上った。
はからずもこの藤吉の動きによって、2階に龍馬がいることが刺客たちに知られてしまう。
階段を上る藤吉のあとを3人の刺客がひそかにつけ、2階奥の間に入ったことを確認。
名札を龍馬に渡して部屋から出てきた藤吉を、刺客の一人が抜刀して斬りつけた。藤吉は、全身に六太刀をあびて斬殺されることになる。
龍馬を暗殺した刺客が突入した経緯に関しては主に2説ある
の2説である。まず@から記述する。
そのとき龍馬は奥の間で、藤吉が取り次いだ名札を行燈の明かりに照らして見ていたが、部屋の外で「バタリ」という大きな物音がしたのを聞いて、「ほたえな」と叱った。
「ほたえな」というのは土佐の方言で「騒ぐな」という意味。
藤吉が斬られて倒れた音を、藤吉と誰かがふざけて騒いでいるものと、龍馬は勘違いしたのだった。
次の一瞬、襖を開けて奥の間に2人の刺客が飛び込んだ。
龍馬と中岡も刺客を察知したであろうが、すでに遅かった。刺客の凶刃が、龍馬の頭部を非情に斬り割った。
刺客の突入についての有力な異説であるが、雑誌『近畿評論』所収の「今井信郎実歴談」によれば、龍馬の顔を知らなかった今井らの刺客は「ヤ、坂本さんしばらく」と機転をきかせて声をかけた。
すると片方の男(龍馬)が「どなたでしたねえ」と答えたので、これが龍馬とわかり、「それっ」といって抜刀して斬りつけたという。
この実歴談は、今井信郎の談話を記者がまとめたものであり、全幅の信頼を置くことはできないものの、状況的には信憑性が感じられる証言であり、こちらが事実の可能性もある。
以下からは「坂本と中岡の死」に基づく龍馬暗殺の話に戻る。
奥の間に突入した二人の刺客は、それぞれ龍馬と中岡に斬りかかった。
一人の刃は龍馬の額を横に斬り割り、気丈にも龍馬が床の間に置いた佩刀吉行(はいとうよしゆき)を取ろうと後ろを向いたとき、二の太刀で右肩から背骨にかけて袈裟懸けに斬った。
続く三の太刀を龍馬は鞘のままで受けたが、鞘の鐺が、低く斜めになっている天井を突き破る。
鍔競り合いのように敵の刀に押されて、吉行は鞘ごと三寸ほど斬り削られ、そのまま再び龍馬の額は横に薙ぎ払われた。
すでに最初の一撃で龍馬の額は割られ、脳漿(のうしょう)が白く吹き出していた。
これが致命傷となっており、龍馬はついにその場に倒れた。
この夜、ピストルも所持はしていたが、近くに置いていなかったようだ。
一方、もう一人の刺客に襲われた中岡は、大刀を屏風の後ろに置いていたため手にすることができず、初太刀で後頭部に斬撃を受けた。
脇差でなんとか立ち向かおうとするがかなわず、左右の手と両足を斬られ、特に右手はほとんど皮一枚を残して切断状態となっていた。
気も失っていた中岡は、刺客が最後に尻を斬りつけた痛みで意識が戻ったが、死んだふりをしてやり過ごした。
刺客の一人が、「もうよい、もうよい」と言葉を残し、彼らは目的を達成して去っていった。
しばらくして龍馬も一度起き上がり、行燈(あんどん)の明かりの下で刀を抜いて刀身に額の傷を映して見た。
すると、その傷口は手のつけられない深手であることがわかり、「残念々々」と呻いた。
次いで、龍馬は中岡のほうを向き「慎太、慎太、どうした手がきくか」と尋ねると、中岡は「手はきく」と答えた。 その返事が聞こえたのかどうか、龍馬は行燈を手にさげて、一階に近い隣の六畳間まで移動し、階下にいるはずの主人に向かって「新助、医者を呼べ」と声をかけた。
しかし、ここまでだった。「慎太、僕は脳をやられたから、もうだめだ」との言葉を残して、龍馬は床に突っ伏し、再び起きることはなかった。
享年33。奇しくも誕生日が命日となった。
中岡は、裏の物干しから北隣の筒屋嘉兵衛方の屋根まで這い出たが、そこで力尽きた。
やがて現場に駆けつけた土佐藩下横目・嶋田庄作らによって救出され、次いで藩士・曽和慎八郎、谷干城、毛利恭助らがやってきた。
また、医師・川村盈進も藩邸から来て、中岡とまだ息のあった藤吉の治療にあたった。
次いで白川の陸援隊屯所から田中光顕、香川敬三、本川安太郎が来て、瀕死の中岡を励まし、遺言を聞いた。
「刀を手元に置いていなかったことは不覚だった。諸君、今後注意するように」「坂本といい、自分までとっさの間にこうまでやられるとは、敵はよほどの武辺者とみえる。因循優隋と嘲っていた幕士の中にも、まだこのような者がいる。諸君ゆめゆめ油断するな」などの言葉を遺している。
結局、治療は実ることなく下僕の藤吉は16日の夕方に落命。
そして、事件から2日間生存した中岡も、17日の夕方、ついに息を引き取った。
中岡が刺客から斬られたとき、刺客は「こなくそ」と叫んだという。
「刺客の言葉に『コナクソ』といったが、コナクソというのは四国の者がよくいう言葉である。ならば、刺客は四国の者に違いない」
田中光顕が中岡から聞いたとされるこの発言が、のちに犯人特定の手がかりとして注目されることになる。
慶応3年(1867)11月15日、龍馬が京都河原町蛸薬師下ルの醤油商・近江屋で暗殺されたと聞いて、周囲の者が真っ先に頭に浮かべた犯人は、新選組であった。
事件当日の土佐藩参政・寺村左膳(道成)の日記に、「多分新撰組等の業なるべし」と記されたのをはじめとして、多くの関係者が新選組が犯人であると疑いをかけている。
倒幕派の志士を取り締まるのが任務の新選組だったからだ。
また、現場の近江屋には犯人のものと思われる刀の鞘が残されており、新選組を脱退して御陵衛士となった篠原泰之進らがそれを検分したところ、「(新選組の)原田左之助の刀」と証言した。
ただしこれは新選組にうらみをもつ御陵衛士の証言であり、恣意的な発言であると疑うべきである。(新撰組は龍馬暗殺事件のような完全な隠密行動には長けていない)
龍馬暗殺の犯人はその後もしばらく明確にはならなかったが、事件から2年以上たった明治3年(1870)になって、大きな動きをみせた。
元新選組の大石鍬次郎を龍馬殺害の容疑で明治政府が捕らえた際に、「私どもの所業にはこれなく、これは見廻組海野某、高橋某、今井信郎ほか一人にて暗殺いたし候由――」と自白したのだった。
ちょうど箱館戦争の戦犯として今井信郎が収監中だったので、本人を呼んで取り調べたところ、「坂本龍馬を殺害の儀は、見廻組与頭佐々木唯三郎より差図にて―」佐々木、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、および今井の見廻組士7人で実行したものと証言した。
ただし7人のうち今井以外の者は全員が戊辰戦争で戦死しており、今井自身は見張り役をしていただけで実際に手を下してはいないと弁明したため、今井に下された処分は静岡藩に身柄を預けられる禁固という軽いものにとどまった。
そして、明治5年(1872)1月には赦免されて自由の身となった。
今井によれば龍馬殺害の理由は、前年に寺田屋で伏見奉行所の捕り方2人を射殺した罪によるものとある。
しかし、それが事実なら、「暗殺」ではなく「生死は問わず捕縛」でも良かったはずで、犯人を隠す必要もなかったのではないだろうか。
明らかに「捕縛」ではなく「殺害」が目的であったとみられるため、今井の供述は信用できない。
そして、さらに30年余り経った後、今井は別の証言を行っている。
龍馬はなぜ暗殺されたのか?誰から恨みを買っていたのか?暗殺事件よりも前に遡って、事件までの経緯をまとめる。
龍馬は28歳のときに土佐を脱藩し、33歳で暗殺された。志士・政治家として活躍した期間はわずか5年である。
5年の間に勝海舟の門下生となり、神戸海軍塾塾頭となり、長崎で亀山社中を設立、薩長同盟の締結に尽力、船中八策の考案など、多くの事績を残した。
これらの行動によって、龍馬は味方と、そして敵をつくり、果てに暗殺されてしまった。
龍馬誕生は、天保6年(1835)11月15日。土佐の郷士(ごうし:下級藩士)・坂本家の二男として城下本町一丁目に生まれた。
少年のころから剣術に才覚を発揮し、地元で小栗流の剣術を学んだあと、嘉永6年(1853)、19歳のときには江戸に出て北辰一刀流を修行した。このとき、たまたまペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航する事件に遭遇し、龍馬の人生は一変する。(このとき龍馬は家族に宛ての手紙に「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている)
黒船の脅威を目の当たりにしたことで、外国勢力の脅威から日本をどう守るかということを第一に考えるようになったという。
文久元年(1861)には親友・武市半平太が組織した土佐勤王党に加盟するが、それにあきたらなかった龍馬は、翌年(1862)3月、28歳のときに土佐を脱藩した。土佐国内に留まったままではできないことがあると感じていたようだ。
江戸に出た龍馬は、同年11月に幕府の政事総裁職・松平春嶽(元福井藩主)のもとを突然訪れ、日本の防衛の必要性を説いた。
この海防論が認められ、春嶽から軍艦奉行並・勝海舟を紹介された龍馬は、海舟に会ったその日に弟子になることを決めた。
しかし、龍馬が海舟のもとで海軍修行に励む日々は、長くは続かなかった。
元治元年(1864)6月の池田屋事件に海舟の門人の土佐浪士・望月亀弥太らが参加していたことで、海舟は失脚。
せっかく作った神戸海軍操練所も閉鎖されてしまったのである。
やむなく龍馬は、同志とともに薩摩藩に身を寄せ、長崎に活動の場を移した。
慶応元年(1865)5月、航海術を修行しながら海運業をおこなう亀山社中を創設し、日本の貿易商社のさきがけとなった。
この亀山社中の働きもあり、龍馬がなしとげた快挙が薩長同盟の締結だった。
薩摩、長州の両藩を同盟させ、倒幕のための一大勢力とする計画だったが、当時の両藩は犬猿の仲であり、手を結ばせようというのは至難の業だった。
それを龍馬はねばり強く周旋し、翌・慶応2年(1866)正月21日、ついに薩摩の西郷吉之助(隆盛)と長州の桂小五郎(木戸孝允)との間で同盟を締結させたのである。
この薩長同盟の動きを、幕府も把握していた。
それで両藩の間を周旋していた龍馬をマークし、同盟締結のわずか2日後の正月23日に伏見の船宿・寺田屋に滞在しているところに伏見奉行所の捕方が踏み込んだ。
恋人のお龍がすばやく危機を報じ、長州の高杉晋作から護身用にと贈られたピストルで応戦した結果、両手指を負傷しながらも龍馬は現場からの脱出に成功した。
ただし、このとき捕方を二人射殺したことで、龍馬は殺人犯として幕府から追われる身となってしまった。
薩長両藩を結びつけて倒幕のために尽くした龍馬だったが、決して徳川との大規模な戦(いくさ)は望んではいなかった。
日本人同士が争って国内が混乱すれば、その隙をついて外国勢力(政府)の介入を許してしまうかも、という危機感を持っていたからだ。
そのため、状況が許す限り内乱を抑えて、革命を成就させる必要があった。
そこで龍馬が考えたのが、大政奉還という策だった。
徳川幕府に自ら政権を返上させ、その取引にこれまでの失政をとがめることなく徳川家を存続させるという、無血革命策である。
そうして慶応3年(1867)6月、龍馬から土佐藩参政・後藤象二郎に提案したのが、「天下の政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷から出すこと」以下八条で構成された「船中八策」だった。
この建言は後藤の手で「大政奉還建白書」としてまとめられ、山内容堂の名で将軍・徳川慶喜へと提出された。
これを受け入れた慶喜は、10月14日、大政奉還を朝廷に上表し、260余年続いた徳川幕府は幕引きとなった。
しかし、それからわずか1か月後の11月15日、龍馬は暗殺されることとなる。
「船中八策」に関して後世の創作説もある(原本書面も残っていない)が、龍馬は大政奉還後の慶応3年11月に「船中八策」と内容が共通している「新政府綱領八策」という新政権の構想を複数自筆しており、こちらは龍馬自筆のものが2枚現存している。
龍馬が大政奉還建白に貢献したことまで疑う必要はないだろう。
徳川御三家の一家である紀州藩にも、龍馬暗殺の直後から容疑がかかっていた。
この年の3月、龍馬と海援隊が乗り組んでいた大洲藩船いろは丸が、瀬戸内海を航行中に紀州藩船の明光丸と衝突し、いろは丸が積み荷もろとも沈没するという事故が起きた。
そのとき龍馬が非は紀州側にあると強硬に主張し、ついに8万3000両もの賠償金を取ることに成功した。
一介の脱藩浪人に御三家の面子をつぶされ、莫大な金まで取られた紀州藩が、龍馬を恨んで暗殺に及んだという説である。
海援隊の陸奥宗光などは、この噂を信じており、紀州藩周旋方の三浦休太郎が指図したのだろうと本気で思っていたようだ。
それで三浦の宿所である天満屋を有志16人で襲撃し、護衛の新選組と大乱闘を演じている。
この陸奥の本気度からすると、紀州藩説には当時かなりの信憑性があったようだ。
見廻組、新撰組、紀州藩など、一般的には、幕府方が龍馬を暗殺したとみる人が多いし、そう考えるのが妥当だろう。
しかし、倒幕方のなかに犯人がいるという見方もある。その中だと薩摩藩に注目される。
薩摩藩は龍馬にとっては倒幕の同志であるが、龍馬が徳川慶喜の擁護派であることが薩摩藩にとって不満だったともされる。
新政府の樹立にあたって徳川を徹底的に排除しようとする薩摩に対し、龍馬は大政奉還の功労者ともいうべき慶喜を、引き続き新政府の重職につかせようと考えた。
倒幕の最終段階に至って、龍馬と薩摩の考え方に大きな隔たりができ、その溝が埋まらないまま龍馬は何者かに暗殺された。少なからず、薩摩に疑いの目が向けられる理由もありはしたわけだ。
とはいえ、薩摩藩のリーダー・西郷吉之助(隆盛)は龍馬とはきわめて親しい間柄であり、そこで意見が対立したからと言って、暗殺までする必要があったであろうか。
何より、見廻組・今井信郎は自身と見廻組の関与を全く否定していないのだ。薩摩が真犯人なら今井は見張りするしてなかった筈で、なぜ今井が薩摩を庇う必要があるのか。
見廻組説、新撰組説、薩摩藩説、紀州藩説、これら四説のほかにも、龍馬の出身である土佐藩のなかに犯人がいたとする説もあり、また実行犯と黒幕が別に存在するという論もある。