捨てるものがないほど徹底して再利用した江戸時代。不用品を回収して必要とする人に売る商人や、壊れたものを修理する職人が江戸の町中には大勢いた。彼らの多くは道具などを持って回ってきたので、わざわざ出向く必要もなかった。
例え紙きれ一枚でも大切に使った。子供が字の練習をするときには真っ黒になるまで書いたという。使用した紙は回収して再生した。
道具を担いでやってきて、その場ですぐに修理していた、出張職人たち。
江戸時代は、捨てるものがないのではないかと思えるほど徹底したリサイクル社会であった。 商品を入れる容器は最初から繰り返し使用することを前提にしていた。 例えば酒は、樽に入れて輸送するが、空いた樽は専門業者が回収。販売する時には通い徳利(とっくり)と呼ばれる酒屋店の名前が入った容器に入れ、酒を飲み終わったら徳利は酒屋に返してもらう。
これは江戸だけだったが、贈答品を売買する「献残屋(けんざんや)」という商売があった。 貰った品を買い取り、これを贈答品として贈る人が購入する。熨斗(のし)アワビやクズ粉など日持ちのする物が多かった。
壊れたものは修理して使った。雪駄(せった)や下駄などの履物は、長い間履いているとすり減ってしまう。 雪駄ならば裏の皮を張り替え、下駄は歯を入れ替える。草鞋(わらじ)ならば、細かく刻んで土壁の材料などに再利用した。
傘は高級品で、壊れたら回収し、修理して使った。傘の紙は柿渋などで防水加工してあるので破れていてもはがして包装紙として再利用する。
例えば木綿の布であるが、庶民は木綿でも新品を買うことはない。比較的裕福な人でも古着屋で着るものを購入するのは当たり前。反物を買って新しい服を作るのは贅沢だった。古着屋は各家庭から不要になった品物などを仕入れる。
古着屋で買った服が薄くなったり、破けたりした部分にはあて布をする。
裾や袖が擦り切れて大人が着なくなったら、丈などを詰めて子供用に仕立て直し、それでも着るに堪えなくなったら、おむつや雑巾として使用する。
もうこれ以上使えないとなったらかまどの焚き付けなどに使い、灰になったら商人に売り渡す。
灰は、当時は染色の定着材や肥料として需要が高かった。
歌舞伎に「かまどの下の灰まで俺のものだ」というセリフがあるのは、灰にも価値があったからだ。
高級品であった蝋燭は流れ落ちた蝋を回収し溶かして再び蝋燭にした。
紙も屑屋という廃品回収業者に売る。
屑屋が回収した紙は溶かして漉き直し再度紙として使用する。
安価な浅草紙(現在のトイレットペーパー)が有名だが、綸旨紙(りんじがみ)という公式な文書の用紙も再生紙から作られていたこともあった。
庶民が住んでいた長屋では厠(トイレ)の残留物も大家のもので、大家は契約した江戸近郊の農家に売り渡す。売り渡し代金は、現金のこともあれば、農家が作った作物で支払われることもあった。くみ取って持ち帰った残留物は発酵させるなどして、農作物の肥料として使われた。
リサイクルしても出たゴミは埋め立てに使われたという。
すべての物を、ただ捨てるのような事はせず、必ず何か意味あるようにリサイクルしていた。
『歴史道 別冊special そうだったのか!江戸の暮らしと仕事』朝日新聞出版 著者:加唐亜紀