大塩平八郎

大塩の乱 大塩平八郎

大塩平八郎

道徳心を重んじる武士

大塩平八郎は大坂町奉行与力だったが、その職を「その勢、欺罔(きもう)、非僻(ひへき)、驕慢(きょうまん)、放肆(ほうし)の病を発せざるを得ざるなり」と嫌悪し、38歳で退職して、儒学の家塾を開いた。
大塩は陽明学を信奉しており、「良知」、つまり人間が生まれながらに持つ道徳心をどう行動に移すかが大事である、という論を展開している。
与力時代、ある町年寄が大塩宅に肴を届けたところ、「不埒の事」だが、そうと知らずにやった事であろうから、今回は差し戻す、という手紙を付けて返されたという。

天保の大飢饉で苦しむ民衆を救う決意

大塩が与力を辞めて6年後の1836年、天保の大飢饉が起き、大坂でも餓死者が出る窮状となった。
この時、大塩は餓死対策を度々、奉公所に上申したが、すべて却下されてしまった。
窮状の背景には、米の市外持ち出しを禁止する幕府の傲慢や、商人の米の買い占めがあったといわれる。
大塩は彼らを奸吏(かんり)、奸商(かんしょう)とみなし、これを討って、金銀や蔵屋敷の備蓄米民衆に配る、という計画を画策する。

乱に失敗し、大塩は自刃

翌年の1837年、大塩は蔵所を売った620両余りを民に施した上で「下民を悩まし苦しめ候諸役人を誅伐」し「驕に長じる金持の町人を誅戮」する旨の檄文を地方に飛ばして、挙兵した。
しかし、奉公所はすでに大塩の動きを警戒していた上、さらに挙兵間際に密告者が出ていた。
大塩の挙兵は、商家数軒を襲撃した後、幕府捕方と小競り合い程度の市街戦を2度程度展開しただけで、鎮圧されてしまう。
大塩自身も約40日間の逃亡の後に自刃した。

大塩の乱が天保の改革につながる

乱の際に放たれた秀、大坂の1/5が焼失する大火となってしまった。
しかし、大坂では「大塩は生きている」という噂と共に、幕政を批判する張り紙や落書きが頻発する。
幕府も旧幕吏が乱を起こすという事態に危機感を募らせ、後に天保の改革を行う遠因となったといえる。



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