大店(おおだな)

大店(おおだな)

「大店(おおだな)」とは、800人の従業員を抱えた越後屋をはじめ、日本橋の表通りに軒を連ねた大商店のこと。主に呉服屋などが大盛況した。古くは「豪商」とも呼ばれた。

目次

日本橋を中心に商いが栄える

物流の拠点・日本橋に商人の町人地ができた

江戸は徳川幕府の都市計画によって造られた武士の都市で、江戸城を中心に町割りが行われ、まず武士たちが移り住んだ。
しかし、武士が生活していくには、衣服や食料など生活に必要な商品を扱う商人が欠かせない。
そこで、江戸城からさほど遠くない日本橋に商人たちが住む町人地が設けられた。
ここは、奥州道中、日光道中、甲州道中、中山道、東海道の起点であり、日本橋の下には日本橋川が流れて水運も便利だった。
つまり日本橋は物流の拠点で、商売をするには最適の場所であったといえる。

浮世絵に描かれた大店は宣伝も兼ねていた?

日本橋周辺の表通りには間口が広く立派な店が数多く造られ、こうした店は大店と呼ばれた。
大店が軒を連ねる姿は、浮世絵に多く描かれたので、今でもその雄姿を見ることができる。
当時、浮世絵は、江戸土産として人気が高かったので、店の方から自分の店を描いてほしいと頼んでいたともいわれている。

「本店」と「支店」が江戸時代に発展

江戸の大店は「支店」、本店は京都などにあった

大店の多くは伊勢・近江・京都などに本店があり、江戸の店はあくまでも「江戸店」という支店であった。
商品の仕入れは本店で行い、江戸店では運ばれてきた商品を販売していた。
しかし、江戸時代の後半になり、関東周辺でも商業活動が盛んになると、江戸店独自に近郊から仕入れを行うようになっていった。

開府当初、江戸はまだまだ地方の田舎だった

伊勢などに本店を置く商人が江戸に多かったのは、徳川家康が彼らを誘致したからだ。
家康が江戸に移った当時は、関東周辺には商人は少なく、また必要な物資を生産することもできなかったので、どうしても関西に頼らざるを得ない状況だった。

大店内部は「そこだけ関西」という空間

伊勢や京都の産品が江戸で売られる

伊勢から出店している商人は木綿、紙、水油、茶、荒物雑貨を扱う者が多く、近江は呉服、木綿、畳表など、京都出身者は呉服をはじめ繊維関係の商品を取り扱うことが多かった。

関西で雇われた人々が江戸に来て働いていた

大店では主の国元で採用された数十人、数百人という大勢の奉公人たちが働いていた。
奉公人のすべてが男で、彼らは本店がある関西の言葉で話す。また、江戸では「金」が使われていたが、関西で使われる「銀」を使用していた。
大店の内部はそこだけ「関西」という独特の空間であった。

越後屋〜伊勢商人が日本橋に開業

今では当たり前の「現銀掛け値なし」とは

その銀だが、「現銀掛け値なし」というキャッチコピーで一躍旋風を起こした店がある。それが越後屋だ。

当時は【後払いが当たり前】で、管理費がかさんだ

越後屋は、延宝元年(1673)、伊勢商人・三井高利(みついたかとし)が日本橋本町に開業させた呉服店。
当時、江戸時代の商売の慣習として、代金は商品と引き換えではなく、後からまとめて払うものだった。
月末にまとめて、もしくは盆と年末の2回、または年末に一括で払うのが一般的で、その管理費が商品の値段に乗せてあった。

越後屋が【代金と商品で引き換え】商法を始めた

それを越後屋では“商品と引き換えに金を払えば上乗せしてある管理費分値引きする"という商法を打ち出した。

他の店は基本的に【一見さんお断り】だった

他の店では商品を先に渡して代金は後払いだから、信用のおける相手としか商売ができない。
だから、いくら金を持っていても一見(いちげん)の客では商品を売ってもらうことができなかったのだ。
だが、越後屋では金さえ持っていれば、初めての客でも商品を買うことができるようになったわけだ。

当時の呉服商は受注後生産、商品をすぐには持って帰れず

当時の商慣習として、呉服屋の店先や、呉服屋の奉公人が家へ持ってきた「ひいなかた」と呼ばれる見本帳を見て客は商品を選ぶ。
江戸店では、客の注文に応じて関西で加工した商品を取り寄せる。
店へ買いに行ってもその場で商品を持って帰ることはできないのだ。

越後屋ではすぐに仕立てるようになった

それを越後屋では選んだ反物をすぐに仕立てるようにした。
さらにそれまで一反※という単位でしか買うことができなかった反物を客が欲しいだけ店頭で切って販売する。
安い上に、かゆいところに手が届くようなサービスを受けられるとあって、越後屋は評判となった。
※一反(いったん)とは大人の着物1枚分に必要な布地のこと

日本橋駿河町店で【両替店】を隣に設営

しかし、出る杭は打たれるのが世の常。周りの店から数々のいやがらせを受けたため、天和3年(1683)、火事をきっかけに日本橋本町から日本橋駿河町に店を移す。
この時、呉服店の隣に両替店を設けた。

越後屋が移った場所が現在の三越日本橋本店のある場所で、越後屋は明治になって日本のデパートの先駆けとなった三越となる。このほか、大丸や松坂屋など明治になってデパートになった大店は多かった。

出典・参考資料(文献)

『歴史道 別冊special そうだったのか!江戸の暮らしと仕事』朝日新聞出版 著者:加唐亜紀


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