松平定信は御三卿の田安家出身で、第11代 徳川家斉の下で老中となった。
定信は一説では将軍にもなれる立場にあったが、田沼意次によって邪魔されたといわれる。
定信が老中に就任したのは、田沼意次が失脚した翌年の1787年、当時打ちこわしが多発し、この勢力が責任を取って辞めさせられてからであった。
老中となった定信は、田沼時代の一掃を政治の基本方針に掲げた。
しかし、社会が幕政に求めていたのはもっと現実的な事であった。
飢饉で疲弊した財政の再建と、不穏さが増す社会の秩序を回復させることである。
これに対し定信が執ったのは、祖父・吉宗の「享保の改革」を模範とした復古的な対策であった。
定信は、財政再建には倹約と備蓄によって、秩序回復には不穏分子の囲い込みと綱紀粛正(こうきしゅくせい)によって、それぞれ改革にあたった。
改革は一時的に幕政を引き締めたものの、次第に失速していく。
特に綱紀粛正は「世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武といいて寝てもいられず」とうるさがられたのだ。
この落首が出る頃には将軍家斉との関係も崩れ始め、定信の改革は6年で終わった。