局中法度と軍中法度

局中法度〜軍中法度をもとに創作された

目次

新撰組にあった厳格な法度

『局中法度』の名は創作か、しかし法度は実在した

新選組といえば、厳格な法度の存在が知られている。一般的に法度は、『局中法度』という名称であったとされるが、名称そのものは創作の可能性がある。
ただ、厳格な法度は確実に存在しており、「士道に背くこと」「脱走」「金策」「訴訟の取り扱い」「私闘」を禁止した五カ条(諸説あり)からなり、違反者は全て切腹させられたといわれている。
成立は文久三年(1863)五月頃とされ、時代劇などでは結成間もない段階で局長たちが隊士を集め朗々と法度を読み上げる場面がよく描かれる。

法度の制定は1865年ごろ、1863年には原型が存在

法度の制定された時期は慶応元年(1865)5月頃ともいわれている。
副長助勤や二番組頭などを務めた永倉新八の記した『浪士文久報国記事』に「新見錦と申す者これあり。この仁、法令を犯し、ことに乱暴甚だしく、芹沢、近藤、説得いたすといえどもさらに聞き入れず、ついに切腹いたさせる一同の論(後略)」とあり、新見が死亡した文久3年(1863)の秋頃には隊内で「法令」が敷かれていたことが示唆されている。
しかし、法令の具体的な内容は不明である。

「局中法度」と「五カ条」について裏付け史料が発見されず

そもそも局中法度という言葉も五カ条の内容も、資料的な裏付けはない。
切腹をもとめる厳格な法度そのものをは確かに敷かれていたのだが「局中法度」という呼称、「五カ条」という条数に関して、新撰組が存在した当時の時代の書物には記されていない。

実際は【四カ条の法度】か(永倉新八談)

四箇条に背くと切腹を申し付けられる

法度の内容については、永倉新八の談話をもとに「小樽新聞」へ掲載された『永倉新八』に、文久3年4月頃の隊士募集後「第一士道を背くこと、第二局を脱すること、第三勝手に金策を致すこと、第四勝手に訴訟を取り扱うこと、四箇条を背くときは切腹を申し付くること」と、五カ条ではなく四カ条の法度が制定されたことが記されている。

小樽新聞の『永倉新八』とは
小樽新聞の加藤眠柳記者が存命中の永倉新八(1915年死没)のもとを訪れ、連載記事を掲載したいと伝えた。新八は快諾し、加藤は日参して話を聞いてまとめ、1913(大正2)年3月から6月にかけて「新選組永倉新八」の表題で70回にわたり連載されたもの。存命中の永倉新八の話をまとめており、信憑性は非常に高い。

局中法度の名称は話に出ず(永倉新八談)

芹沢・近藤・新見の三人で定めた

この四条は「新しい面々はいわば烏合の勢、これを統率するには何か憲法があらねばならぬ。そこで芹沢は近藤、新見の二人とともに禁令を定める」(『永倉新八』)と、芹沢、近藤、新見の話し合いで定められたとあるが、局中法度という名称は小樽新聞の『永倉新八』には出てこない。

五カ条の初出は『新選組始末記(1928年)』

局中法度という名称は、子母澤寛の『新選組始末記』が初出と思われる。同書は読売新聞の記者だった著者が存命していた新選組所縁の人々を取材して記した一冊で、このなかに文久3年4月の隊士募集後、近藤の主張により五カ条からなる「局中法度書」が掲示されたとの記述がある。
(「近藤の主張」というあたり、脚色が掛けられたのではと懸念する)

永倉新八「四カ条」、所縁の人々「五カ条」

しかし、『新選組始末記』は子母澤寛自身が「歴史を書くつもりなどはない」と書いており、どこまでが史実か判断できかねる。
永倉新八という新撰組の生き証人の話と、素性のわからない【新選組所縁の人々】の話と、どちらがより信憑性が高いかは明白である。

新撰組始末記(1889年)にも法度の存在が記述

ただし隊内に厳しい規則があったことには違いなく、西村兼文(1832〜1896年)の『新撰組始末記(1889年)』には「厳重ニ法令ヲ立テ、其処置ノ「辛酷ナル」)とある。
西村兼文は尊皇攘夷派の志士で、新撰組とは対立する立場にあったが、御陵衛士・伊東甲子太郎らと交誼を結ぶことで、新撰組の内情に関してもかなりの情報を得ていたと思われる。

軍中法度〜土方歳三がその存在を伝えた

土方が小島鹿之助家へ伝えた

四カ条の法度とは別に、元治元年(1864)10月に土方歳三が『行軍録』とともに小島鹿之助家へ伝えた『軍中法度』というものがある。

『行軍録』とは
「行軍録」とは、元治元年(1864)12月と慶応元年1865)9月に、土方が作成した進軍リストを作成。武蔵の国許へ送っている。これらは土方による試案と見られ、いずれも長州へ出軍した際の新選組の進軍形態を、詳細に表記したもの。慶応元年の「行軍録」では、小隊を束ねる組頭隊士たちを「奉行」や「頭」などとし、隊旗や、近藤や土方の家紋入りの旗指物なども図示した。元治元年の「行軍録」では、「軍中法度」と題する、長州出軍中の厳しい戦陣訓をも策定して同送した。

『軍中法度』を基に局中法度が創作されたか

この『軍中法度』を見ると、「私の遺恨これあり候えども、陣中において喧嘩口論仕りまじき事」と、私闘を禁じた条項がある。
先行の研究により、『局中法度』はこの『軍中法度』の条項と、『永倉新八』に見える四カ条の法度を模して子母澤寛が発表したと推測されている。

「武士道に背く行為をしてはならない」

さらに『軍中法度』を見ていくと、「一、組頭討死に及び候刻、その組衆その場において死戦を遂ぐべし。もし臆病を構え、その虎口逃げ来る輩これあるにおいては、斬罪徴罪(以下略)」という条項もある。
新選組では「かねて覚悟、未練の働きこれなきよう、相嗜まるべき事」が隊士に求められていた。

古株・幹部であっても法度に反すれば粛清

結成以来の同志であっても容赦はない

新選組の法度は結成以来の同志であろうと情けをかけることはなく、副長(総長)の山南敬助も脱走の科により切腹している。
慶応元年(1865)2月23日のことで「新選組法令に脱走を禁じ犯すものは切腹を命ずるよう規定してある。山南氏のこのたびの脱走についても、法文の通り切腹を申し付ける」(『永倉新八』)と、切腹を申し渡された。

参謀・伊東甲子太郎も粛清

また隊を離れ御陵衛士(高台寺党)を結成した伊東甲子太郎一派も、慶応3年11月18日に粛清された(油小路の変)。
>> 新選組と御陵衛士

池田屋事件で戦った藤堂平助ですら粛清

この時、盟主の伊東をはじめ御陵衛士の藤堂平助、毛内有之助(監物)、服部武雄が命を落としている。
藤堂の場合、近藤も「若シ見エタラ介ケベシ」(『浪士文久報国記事』)と命は助けるように述べていたが、混戦の最中、斬られた。
結成以降、隊内で粛清・切腹された隊士は40名にのぼる。

局中法度と軍中法度の内容

局中法度(非現存、下記のモノは後世の創作)

  • 一、士道ニ背キ間敷事(武士道に背く行為をしてはならない)
  • 一、局ヲ脱スルヲ不許(新撰組からの脱退は許されない)
  • 一、勝手ニ金策致不可(無断で借金をしてはならない)
  • 一、勝手ニ訴訟取扱不可(無断で訴訟に関係してはならない)
  • 一、私ノ闘争ヲ不許(個人的な争いをしてはならない)
  • 右条々相背候者切腹申付ベク候也(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)

子母沢寛が昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で掲載されて以来有名となり、上記の5か条として知られる。
ただし同時代史料にはこれをすべて記録したものは発見されていない。よって、『新撰組永倉新八』(1927)の四カ条の「制禁」から借用し、アレンジしたものではないかと指摘されている。流泉小史の『史外史譚剣豪秘話』(1930)ではさらに、三条からなる「隊規」に変改されている。

軍中法度

  • 一、役所を堅く相守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事
  • 一、敵味方強弱の批判いっさい停止の事
  • 一、食物いっさい美味禁制の事
  • 一、昼夜に限らず、急変これ有候とも、決して騒動致すべからず、心静かに身を堅め下知を待つべき事
  • 一、私の遺恨ありとも陣中に於いて喧嘩口論仕り間敷き事
  • 一、出勢前に兵糧を食ひ、鎧一縮し槍太刀の目釘心付べき事
  • 一、敵間の利害、見受之あるに於いては遠慮及ばず申出るべく、過失を咎めざる事
  • 一、組頭討死に及び時、その組衆、その場に於いて死戦を遂ぐべし、もし臆病をかまえその虎口逃来る輩これ有においては、斬罪微罪。その品に随って申し渡すべきの候、予て覚悟、未練の働これ無き様相嗜むべき事
  • 一、烈しき虎口に於いて、組頭の外、死骸を引き退くことなさず、始終その場を逃げず忠義をぬきんずべき事
  • 一、合戦勝利後乱取り禁制なり。その御下知あり之に於いては定式の如く御法を守るべき事
  • 右之条々堅固にあい守るべし。この旨執達件のごとし

「軍中法度」(『異聞録』)所収。元治元年(1864)11月、土方歳三が郷里に送った『行軍録』とともに記された戦陣訓。従来、新選組創立時の隊内の「制禁」とされていた。

新撰組を【除隊】する方法もあった

正当な理由で除隊する
正当な理由さえあれば、除隊も可能だったらしい。西村兼文によると、慶応3年3月に「洋行に志す」(留学したい)といって退去した司馬良作の例、同年6月までに「病」によって郷里に帰った小路平三郎の例がある。また、藤沢竹城のように慶応3年か翌年に入隊したものの、文芸ばかりで戦や武芸の役に立たないとして除隊されたケースもあった(以上『新撰組始末記』)。
脱走して逃げきる
もっとも簡単な「除隊」は、脱走して逃げ延びることである。たしかに、新選組から追捕隊を出すこともあった。慶応元年(1865)脱走した上田末次ら3名が名古屋附近で金策しているとの情報を得て、伊東甲子太郎、島田魁らが捜索したものの捕縛できず、細井忠之助のみ京都で捕まっている。このようにいったん脱走してしまえば、捕まえることは難しかったのである。
新選組から分離する、追放される
慶応3年(1867)3月の伊東甲子太郎ら10数人の「分離」が唯一の例。前年12月に「禁裏御陵衛士」を拝命したことを理由に、新選組別派として行動するという形をとった。伊東と近藤の会談で決められたとされる。分離後の相互の移籍は禁じられており、後日、茨木司ら4名が御陵衛士に合流しようとして失敗し、自刃。茨木らに同調した6名の隊士は「追放」という形で除隊した。

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