御家門(徳川一門)

御家門〜家康の家系から発祥

江戸時代、全国各地に存在した徳川一門

御家門とは、徳川家康の兄弟の家系の大名家、将軍家、旗本家を指す。松平姓を名乗ることを許された。御家門の多くは幕府の役職に就くことはなく、将軍家の一門としての格式を重んじられた。

「御家門」という言葉の意味

「御家門(ごかもん)」という言葉の本来の意味としては名家の一族を指し、単に家門ともいう。しかし、単に「御家門」とだけ記している場合の多くは江戸時代に全国各地に存在した徳川一門のことを指す場合が多い。

目次

御家門 簡単まとめ

御家門の家祖はどういう人物だったか?
家康の息子や、御三家の家祖の息子(家康の孫)らが家祖になった
各家の処遇や役割はどうだったのか?
松平姓は許されていたが、幕府の役職に就かず、あくまで「将軍家の一門」としての格式が重んじられた
御家門同士の格付けはどのようになっていたのか?
筆頭格だったのは、越前福井藩や陸奥会津藩だった

徳川家康は松平家の出身

「松平」は名乗れるが「徳川」は名乗れず

徳川家の血筋を引くのは御三家や御三郷だけではなかった。それ以外にも徳川家の家系に連なる家は各地に多く存在した。これらの家は【徳川の姓を名乗ることはできない】が、【松平姓は許されていた】。それというのも徳川家康が松平家の出身だからだった。

松平氏発祥の地、、三河国加茂郡松平郷

松平氏は、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市)が発祥の地とされる。
三河では「十八松平」と称する一族が割拠していたが、「十八松平」というのは、徳川(松平)宗家と同族関係にある十八家を指す。

徳川家を【いつから支えて来たか】が重要

四代親忠のころまでにできあがり、徳川の家臣は譜代、外様と明確に区別していた。
譜代とは、関ヶ原の戦い以前に臣従していた家臣を指す。それに対して外様は、それ以後に臣従した家臣だった。
「十八松平」は、長年忠義を尽くしてきた譜代とともに徳川を支えてきた。

徳川家の血統が全国各地へ広がる

数えきれないほど多岐にわたる徳川家

徳川将軍家の一族、庶子筋の大名家などは、数えきれないほどあった。
このような家を「御家門(御一門)」というが、これらを見ると徳川家の血筋は多岐にわたっていることがよくわかる。

特に有能な人材を輩出した松平家

とくに松平家は全国各地に根付いているだけに、多くの有能な人材が輩出されている。
たとえば幕府の創業期、幕府の財政と会計の責任者として活躍した松平正網は、非常に有能な実務家だった。天正4年(1576)、遠江に生まれたが、天正15年に家康に命じられて、長沢松平正次の養子となった。正綱が家康に近侍したのは文禄元年(1592)からだった。算勘明達、すなわち計算や事理の才能をもって仕えていたとされる。その忠勤ぶりが認められ、慶長14年、勘定頭となった。
正綱は駿府の家康のもとで財産の運用管理、収支決算などを担当し、家康の財産を増やすことに一役買った。
家康の没後は、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光を実務派官僚として支え続けた。

御連枝〜御三家がさらに分家

高須・西条・高松・守山・府中・宍戸などの松平家

御家門の他、「御連枝:ごれんし)」(連枝:れんし)と称される人々もいる。 御連枝は主に御三家の分家をいう。たとえば、尾張家分家の高須松平家、紀伊家分家の西条松平家、水戸家分家の高松松平家、守山松平家、府中松平家、宍戸松平家などがある。

高須松平家

高須松平家は、尾張家2代当主・光友の次男・松平義行の時代に、天和元年(1681)、幕府から信濃のうち3万石の大名に取り立てられた。 その後、元禄13年(1700)、信濃の一部を美濃に移し、連枝とされた。

上級家臣が尾張家に付属され御連枝に

御連枝の始まりは色々な形がある。 例えば、上級家臣が尾張家に付属する形になることもある。 俸禄は尾張家から支給されたが、これは本家の統治システムによって異なる。石高は少ないが、譜代大名の扱いをうけることもあった。

西条松平家

紀伊家分家の西条松平家は、紀伊家初代当主・頼宣の三男頼純から始まる。 頼純は、まず本家から5万石を内分してもらった。しかし、その後、幕府から伊予西条に3万石を与えられたため、内分されたうちの3万石を本家に戻し、残りの2万石だけを受領している。

高松松平家

水戸家の場合、4つの分家をつくったが、一例として讃岐国高松藩主となった高松松平家がある。水戸家初代当主・頼房の長男・頼重によって始まった。常陸下館5万石から讃岐高松12万石に転封し、加増されたことによる。

分家した徳川家にも仲間意識は宿っていた

このようにして、徳川家という「氏」を変えながらも、その血筋は各地にを広がり、全国で影響力を強めていった。それは同時に、そこに属する人間同士、同族意識を芽生えさせることにも繋がった。

御家門23家について

越前松平系

越前福井松平家(福井(北庄)藩)
結城秀康の長男・忠直が松平性を名乗り、福井藩主を継いだ。しかし、将軍家と対立した忠直は配流され、越後高田藩主となっていた弟の忠昌が越前藩主となる。以来、忠昌の子孫が藩主として幕末に至った。
美作津山松平家(越後高田藩/美作津山藩)
配流となった松平忠直の長男・光長は、越後高田藩主となるが、自身も御家騒動で配流となってしまう。光長の養子となった宣富の系統が美作津山に10万石を与えられ、子孫が続いて幕末を迎えた。
越後糸魚川(清崎)松平家(越後糸魚川藩)
福井藩主・松平光通の子・直堅が家祖。直堅は庶子のため福井藩主となれず、子孫が糸魚川藩主となった。
出雲松江松平家(出雲松江藩)
結城秀康の三男・松平直政を家祖とする。直政が18万6000石で出雲松江に入封してから、幕末まで出雲藩主を世襲した。また、松江松平家は、公義御料となっ隠岐1万4000石も預かることになっている。
出雲広瀬松平家(出雲広瀬藩)
初代松江藩主・松平直政の次男・松平近栄が家祖。3万石を分知され立藩し、10代在封し幕末に至った。
出雲母里松平家(出雲母里藩)
初代松江藩主・松平直政の三男・松平隆政が家祖。1万石を分知され立藩し、10代在封し幕末に至った。
上野前橋松平家(播磨姫路藩/武蔵川越藩/上野前橋藩)
結城秀康の五男・松平直基を家祖とする。朝矩の代に上野前橋に転封となるが、前橋城が川に侵食されたため、武蔵川越に居城を移転する。その後、松平直克の代に城を再築して前橋城に戻った。
播磨明石松平家(越前大野藩/播磨明石藩)
結城秀康の六男・松平直良を家祖とする。直良の子・直明が播磨明石3万石の藩主となり、幕末に至る。この間、11代将軍・徳川家斉の25男・斉宣が藩主になったときには、2万石を加増され8万石となった。

越智松平系

石見浜田松平家(上野館林藩/陸奥棚倉藩/石見浜田藩/美作鶴田藩)
甲府藩主・徳川綱重の次男・松平清武を家祖とする。斉厚の代に石見浜田6万1000石に転封となった。第二次幕長戦争のとき、武聰が長州藩に敗れて浜田を追われ飛び地の美作鶴田に移り、幕末に至る。

保科松平系

陸奥会津松平家 (陸奥会津藩/陸奥斗南藩)
3代将軍・徳川家光の異母弟・保科正之を祖とする。正之の子正容から松平性を名乗った。幕末には容保が京都守護職として倒幕派と対立し、戊辰戦争では新政府軍に会津若松城を攻撃されて降伏開城した。

尾張徳川系

陸奥梁川松平家(陸奥梁川藩)
尾張徳川家の2代・光友の庶子・松平義昌を家祖とする。3代目の義真に嗣子なく、絶家となった。
美濃高須松平家(美濃高須藩)
尾張徳川家の2代・光友の子・松平義行を家祖とする。美濃高須に陣屋を構え幕末に至った。歴代には、尾張徳川家を継いだ藩主もいる。また、10代・義建の子は尾張徳川家・会津松平家・桑名松平家を継いだ。

紀伊徳川系

伊予西条松平家 (伊予西条藩)
紀伊徳川家の初代・頼宣の次男・頼純を家祖とする。頼純は、2万石を分知され、伊予西条に陣屋を構えた。以後、紀伊徳川家の連枝として幕末に至る。歴代には、紀伊徳川家を継いだ藩主もいる。

水戸徳川系

讃岐高松松平家(常陸下館藩/讃岐高松藩)
水戸徳川家の初代・徳川頼房の長男・松平頼重を家祖とする。頼房の次男・徳川光圀が水戸藩主となったが、光圀は兄・頼重の子に徳川家を継がせ、自らの子・頼常を高松藩主とした。頼常の子孫が幕末に至る。
常陸守山松平家(常陸額田藩/陸奥守山藩)
水戸徳川家の初代・徳川頼房の四男・松平頼元を家祖とする。子孫は常陸額田から陸奥守山に移り幕末に至る。
常陸府中松平家(常陸府中藩)
水戸徳川家の初代・徳川頼房の五男・松平頼隆を家祖とする。幕府から2万石を与えられて立藩した。
常陸宍戸松平家(常陸宍戸藩)
水戸徳川家の初代・徳川頼房の七男・松平頼雄を家祖とする。9代・頼徳は幕府に反したとして自害した。

その他

尾張清洲松平家(尾張清洲藩)
家康の四男・松平忠吉を家祖とする。尾張清須52万石の大名となるが、嗣子なく早世。絶家となった。
駿河府中松平家(駿河府中藩)
徳川秀忠の三男・徳川忠長を家祖とする。兄・家光と確執があり自害し絶家。御三家と同等の家格を誇る。
上野館林徳川家(上野館林藩)
徳川家光の四男・徳川綱吉を家祖とする。兄・家綱の養子となり将軍に。御三家と同等の家格を誇る。
常陸水戸武田家(常陸水戸藩)
徳川家康の五男・武田信吉を家祖とする。水戸藩主となったが21歳で嗣子なく早世し、絶家となる。
越後高田松平家(越後高田藩)
徳川家康の六男・松平忠輝を家祖とする。越後高田藩主だったが大坂の陣への遅参を理由に改易された。
甲斐府中徳川家(甲斐府中藩)
徳川家光の三男・徳川綱重を家祖とする。子の家宣が将軍家を継いで絶家。御三家と同等の家格を誇る。

出典・参考資料(文献)

『No.155 歴史人2023年11月号 徳川15代将軍ランキング』ABCアーク


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