歩くとき

武士の作法 歩くとき

歩くときは左側

江戸時代の武士は、現代の車道と同じで、歩くときは左側通行であった。
その理由だが、武士の腰に挿した刀がぶつかるのを避ける為であった。
刀の鞘同士がぶつかる事を「鞘当て」というが、鞘当てが起きると、切り合いにまで発展しかねなかった。
武士にとって刀は魂であり、それをぶつけるのは、無礼極まりない事だったのだ。
また、鞘当てには相手への決闘を申し込むという意味が含まれていた。
そのため、中には喧嘩を吹っ掛けるためにわざと鞘当てをしてくる輩もいたのだ(現代でも、わざと肩をぶつけてくる人間が稀にいるように)。

歩くとき、常に用心を怠らない

武士が歩くとき、手を大きく振らず、下にぶら下げたままにしていた。
何者かに襲われた時など、すぐに刀を抜くことが出来るようにとの考えからであった。
懐に手を突っ込んだり、肩で風を切って歩くような事もしなったという。
荷物を持つときでも、両手がふさがらないよう、片手はいつも開けておく
緊急事態に備え、ちょっと町へ出る時も、用心は怠らなかったのだ。

夫婦や娘とで出かける時

江戸時代は、夫婦が人前で手を繋ぐ事はおろか、連れ立って町を歩く事もなかった。
とりわけ、武家社会では、男尊女卑の傾向が強く、「女と並んで歩くなど軟弱」と考えられていた。
そのため、外出する際は、たとえ娘であっても、並んで歩く事はなかった。
また、公衆の面前で、女性と世間話をする事も決してなかった。
もし、そんな姿を見掛けられれば、たちまち噂になり、無作法な輩だと後ろ指を指されてしまうのだ。
とはいえ、武士も結婚すれば、年に何回かは、神社参りや墓参りなど、妻と連れ立って出かける事もある。
そんなときは、妻や娘は、後方に付き従うように歩いたという。
実は、妻と離れて歩くのは、妻や娘が何者かに襲撃されるのを防ぐ意味もあったのだ。
そのため、妻には中間などのお供が付き、さらに妻の後ろには侍や小者が警護に付いていた。
町人でも、裕福な商人になると、町を歩くときには妻は後方に従うようにして歩き、やはり夫と並んで歩く事はなかった。


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