日本と中国の関係

日本と中国の歴史

日本と中国の関わり

日本と中国(歴代の中国王朝)との歴史は長い。
日本と中国とは海を隔てているが、政治的にも経済的にも切り離せない隣国であり、歴史的に大きな関わり合いがあった。
しかし、お互いの相手に対する態度は全くの好対照とすら言えるものであった。

日本は中国に対し熱心に情報収集を行っていた

日中は、いつから関わりがあったのか?

日本側の中国への関心は弥生時代にまで遡る。
九州地方にあった奴国の王が後漢の光武帝に使節を派遣しているし、時代が下った中国三国時代にも邪馬台国が魏に使節を送っている。
その後、飛鳥時代には遣隋使、遣唐使を派遣する等、中国の先進文化や学術を取得しようとしていたした、情報収集を積極的に行っていた。
中国は、文化面・軍事面において常に日本よりも前を進んでおり、その中国と国交を持つ事こそが、日本国内において権威者としての証明でもあった。

歴代の為政者たちの中国への認識

情報収集については大抵の時代において、日本は中国に対して、正確なものを有していた。
例えば、平安時代の学者である菅原道真は、894年に「これ以上、唐から学ぶ事は少ない」と遣唐使の廃止を朝廷に進言しているが、それから10年程度のうちに唐は滅亡した。
しかし、明の時代には、室町三代将軍の足利義満は、朝貢に近い接し方を中国に対して取っている。
室町幕府が滅んだ後、日本の政務を執ったのは豊臣秀吉や徳川家康であった。
秀吉・家康ともに明から「服属する事」を条件に国交を迫られているが、結果は、秀吉は大陸に出兵家康は交渉が決裂している。
近代になって、清が英国に敗れたアヘン戦争の情報も正確に届いており、中国が列強に敗れたという事実が幕末の攘夷運動・開国運動に影響を及ぼしている。

国力では中国に敵わない事を理解していた日本

勿対外情勢を知らずに朝鮮に出兵した豊臣秀吉のような例外はいたし、出方を読み切れずに侵攻を招いた北条時宗のような例もあった。
が、多くの時代において日本の為政者たちは、中国に対し、かなり正確な知識を持っていた。
また、中国の事を強く意識していた。
元寇の時に戦った北条時宗は、文永の役の後、九州沿岸の防備を徹底して強化していたし、より以前の白村江の戦いの後には防人を九州沿岸の警護にあたらせている。
実際に中国が侵攻して来るという事はなかったが、日本は昔から中国を強く意識し、その国力の強大さを警戒して来たのである。

中国は日本に対し、無関心だった

中国は、日本の事をどう見ていたのか?

東方見聞録に見る中国の日本像

マルコ・ポーロの「東方見聞録」などが良い例である。
この中で日本は「ジパング」として紹介されているが、そこでの内容は「日本は黄金の国である」という実情とはかけ離れたものであった。
マルコ・ポーロは日本へは来ていない。
従って、「日本」が「黄金の国」だという情報は中国で「得た」ものだろう。

魏志倭人伝に見る中国の日本像

弥生時代の日本に存在したといわれる女王の治める国「邪馬台国」だが、これは「魏志倭人伝」という中国側で書かれた歴史書によるものだ。
日本側には邪馬台国に関する歴史は一切残っていない為、邪馬台国の場所は未だに論争となっている。
勿論、魏志倭人伝には邪馬台国の所在地が記されている。
しかし、読み方によって全く異なる解釈が生じるほど、中国側が邪馬台国(日本)に対して曖昧な記述をしている。

徐福に見る中国の日本像

紀元前、秦の始皇帝の時代、中国の知識人であった「徐福」が日本を訪れている。
徐福は五穀の種子や、中国の先進技術を日本へもたらしてくれたが、彼は何も日本を良くするために来てくれた訳ではない。
始皇帝の命を受け、「不老長寿」の薬草を求めて日本へやって来たというのだ。
無論、そのような物が日本にあるはずもなく、彼が中国へ薬草を持ち帰ったという記録はない。

日本に無関心だった中国

中国が日本に対して有している情報は、荒唐無稽なものが多く、日本が倭寇を擁して中国への上陸を企てているといった類のものもあった。
つまり、日本は中国の事を知ろうとし、積極的に情報収集を行っていた。
だが、逆に中国は日本に対して、無知でかつ無関心な状況だったともいえる。

中華こそが世界の中心という思想

中国のこうした外国への姿勢は、何も日本に対してだけという事ではない。
現在の朝鮮半島や台湾に対しても、似たような感覚であった。
中華こそが世界の中心であるという中華思想の典型例といえるのだが、ともあれ中国は日本に対して殆ど関心を払っていなかったし、関心を向けるつもりもなかったようだ。

現代の日中関係

清朝の没落

こうした中国側の日本への無知無関心は日清戦争の頃まで変わらなかった。
日清戦争において、中国(清)は日本のような小国にまで敗れてしまったわけだが、その後、清国国内で反清運動が起きてくると状況が変わってくる。
清は中国東北部を根拠地とする満州族の王朝であり、それまで漢人を抑え込んで来ていた。
しかし、英国やフランス、さらに日本との相次ぐ敗戦によって威信が揺らぎ、国内で反対運動が芽生えて来たのである。
この反対運動を起こす側の中には「同じアジアの国ながら近代化に成功した日本を見習うべきだ」と、日本を目標とする者が多くいたのである。

中華民国の成立

また、こうした活動家が清側の弾圧を受けた際の亡命先として日本を選ぶ事もあった。
その典型例が孫文であり、彼は日本で宮崎滔天(とうてん)らの庇護を受けて、反清活動を継続し、最終的に清朝を打倒して中華民国を建国した。

政情不安が続く中国

仮に日本との縁が深い孫文が中国を完全に統治する事が出来ていれば、その後の日中関係は大きく変わったであろう。
しかし、現実には中華帝国の統治も安定せす、程なくして中国国内で軍閥や共産党が対立し、再び混乱する事となった。
こうした混乱が日本側の保持していた中国東北部の権益に影響し、日本としても中国国内の状況を黙ってみている訳にも行かなくなった。
こうした状況と国際社会と日本の相互不信の中から、日中戦争太平洋戦争という流れになっていく。


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